『余は如何にして基督信徒となりし乎』
内村鑑三
鈴木俊郎訳
岩波文庫
\★★★
1958.12.
名著であるし、今まで読んだことがないのが不思議なくらいである。が、えてしてそういうもので、いつか読もうと思っているうちに、年齢を重ねる。へたをすると、読まずして世を去ることにもなりかねない。思い立ったときに読んでおきたい。また、そのチャンスが来ることを願うものだ。
今回、古書店の棚に見つけたので買おうと思った。内村鑑三の私生活あるいは個人的な信仰史が明らかにされている。英語を用いて世界に発信していたのたから、今日的な感覚であるし、また当時にその能力を得ていたというのが見事というほかない。
アメリカに渡り感じたこと、とくにその信仰について、当地に思い描いていた理想がずたずたに崩され落胆した後に、日本人の道徳のすばらしさに目覚めていく過程も描かれている。そこに、後に提示する「二つのJ」が出てきていることを知るのも、読書の楽しみであると言える。
私は思わずにやりとした。いや、こうやってこそ、内村鑑三の二つのJの考えが形成されていったのだとよく分かり、一種の感動に包まれていた。その人の有名な言葉や思想は、結果だけを私たちは知るものであるが、それが現れ至るための背景や事情というものをこのように明らかに見ることができたら、うれしいというほかないであろう。
本人も記しているように、どうやって神を信じるに至ったかという証しだというわけではない。内村鑑三の場合、なんだか勢いで巻き込まれるかのようにして信仰の場に入ったようなところもある。そのためか、その後の生活においても、一途ではあっても、その一途のあまりに他者への厳しさが先立ち、トラブルを起こすことも幾度もあった。不敬事件ももちろん、信仰の道からして称えるべき面もあるのだが、果たして本人の中でどういう信条・心情であったのかは、傍からは分からない。
その熱意は、アメリカの姿にはこれまたたいそう厳しかった。聖書を伝えたアメリカがどんなに福音化されたすばらしい国かと思いきや、街の様子は酷いものだと呆れレポートしている。日本のほうがよほどすばらしいではないか、とも思えると感じたのであるが、このことが、聖書の無価値という考え方には向かわなかった点は、内村の聖書への信頼がよく現れている。聖書と神に捉えられた生き方は、内村鑑三に与えられた天の職であったのだろう。その意味で、彼はまさに神に呼ばれたのである。内村鑑三から多くの弟子が育っていった。その精神は、教会という不完全な組織を崇めるようなことから距離を置いた、より聖書に従おうと一途な信仰の知識層の人々を育んでいった。日本でインテリ向きのキリスト教が増えたなどとも言われるが、学的に十分意味のある宗教であるということを、西洋ほどではないにせよ、日本で認知させた意義は大きい。
本書は、理論的な書ではない。いきいきとした当時の人々の考え方や生活の様子がよく伝わってくる。言葉は古いが、今は新しい訳も出てきている。内容としては決して読みにくいわけではないのであるが、私にとっては、やはりこの文語調のものを見てよかったのではないかと思っている。しかし皆さんは、お好きなタイプで触れて戴きたい。