本

『「あなた」の哲学』

ホンとの本

『「あなた」の哲学』
村瀬学
講談社現代新書2032
\740+
2010.1.

 こうした良い本のことを、発行当時知らなかったというのは自分に残念である。だが、今だからこそこの本が読める程度に自分が成長した故に、いま本の存在に気づいて読んだ、と考えるならば、それなりに納得しようというものである。
 この本はおそらく日本ではじめての「あなた」論である。日本語で書かれた「あなた」についてのたぶん唯一の、十分に考えられた考察である。
 これは私の評ではない。著者自らが「あとがき」の冒頭でそう書いているのである。その自信も大したものだが、それだけ考察しようと調べに調べてもなお、これを論じたものに出会わなかった、という事実を物語っているものであろう。
 しかし少しばかり哲学めいたものを知る者には「我と汝」というブーバーの名著が頭に浮かぶはずである。それについて研究した日本語の著作はどうなるのか、すぐに疑問が湧くものである。しかしこれに対しては、「汝」と訳されるのは何故か、と著者はしつこく食らいつく。訳語の問題でもあるのだが、「汝」は「あなた」とまた違うはずである。ブーバーのかの著作ではドイツ語の「du」が使われている。これは気軽にあるいは親しく相手に話しかける言葉である。もはや聖書の文語訳にしか出て来ないような「汝」と訳す理由がどこにあったのだろうか、というのだ。もちろん、ブーバーの場合に宗教的な趣を含んでくるためにそうしたのだ、というような理由はあろう。だがそれならなおさら、日本語でいう「あなた」について論じているのではなくなる。ブーバー研究は、ここでいう「あなた」を考察しているのではないことになる。
 しかしこれは論が少し進んだところである。最初は、「あなた」の卑近な使用例なども十分考慮した上で、論ずる場合には「あなた」ではなく「他者」ばかりなのだ、とぼやく。哲学的には、他者論というのは重要である。そして何かと「他者」と呼ぶ。しかし日常でこの言葉を使うことはまずない。日常で使わない語がどうして私たちに必要な考察の対象となっているのか。「あなた」は無数に使うし、歌の文句ではそれを使うのが常道ではないのか。
 こうなると、「あなた」という日本語、日本人が使う捉え方という方面になっていくであろう。しかし、それを考察すべきだというのは尤もな話である。日本人がいくら「du」だの「you」だのを研究しても、日本で普通に「あなた」と使っているのがどういう意味なのかという点については、全く教えてくれないはずである。
 著者は、「あなた」という語の中に、ただの相手を指す二人称だなどという切り分け方では捉えられないものがあると気づく。それは語る自分や、相手や同時代に生きる人々、さらには将来の存在者をも巻き込むような形で捉えられる、何かしらの関係の中にある構造を含み表すような構え方をしている見方からこそ生まれる言葉ではないのか、そんなふうな角度で迫っていくのである。個々がばらばらの存在である中で向き合って「あなた」と呼ぶような捉え方はしない。「ともに-あること」を体験していること、さらに言えば「世代」をつなぐものを背後に有する場がそこにあるというのである。
 そもそも本論のスタートが、上野千鶴子と中島義道への痛烈なパンチであった。おひとりさま万歳のような主張でよいのか。本書は、そうではないぞということを言いたいがための「あなた」という場であったのかもしれない、とさえ感じられるほどである。確かにこれら二人は、背景にある家族の問題という意味では、不幸なところがあった。だから、家族を否定したり、ひとりで十分だという結論のために理論武装をする頭の良さがあったのも確かである。しかし、個として存在しているようでありながらも、人は何らかの「世代」と共に生きていて、継承し継承されていく紡ぎのようなしくみの中にあるのだという方に目を向けていくのである。
 夏目漱石の『坊ちゃん』により、人を名づけることに格付けの問題が潜んでおり、この小説を画期的な読み方で読み解くあたりは面白かった。人称は人を評価する、格付けする手段だというのである。その中で清だけが「あなた」と呼ぶ。ここに格付けをしない、ありのままのそのままのその人を捉える眼差しがあるのだという。瞬間的に人称を変えることで、相手の格付けをころころ変えるような芸当も日本語ならできる。自分や相手を指す人称語が無数に(はオーバーだが)あるのはそのためであると指摘する。
 終わりのほうでは、実際にあった社会的事件の例や、不自由な生活を強いられた人の言葉などを用いながら、筆者個人の思惑に制限されない、現実の人の抱く「あなた」あるいはそれを取り巻く関係世界を読者に次々と見せていく本であるが、終わりの方で、西田幾多郎も出てくる。西田が「私と汝」という論文を書いているためである。西田哲学に入っていくと、とても新書レベルでは論じきれないものとなるのだが、西田が人格の応答としての汝を想定しているのではないかと考え、愛というものも持ち出されたことで筆者は困惑する。それをヘーゲルの歴史哲学から読み解こうともするのだが、西田幾多郎自身、家族に対してある意味で非常に不幸な人生を感じている点には触れられていない。西田は姉や弟を失う中で育ち、自分の子も8人のうち5人まで、自分より先に亡くしている。幼い娘を亡くす経験もしている。こうした悲哀の人生を辿る中で、自己自身などということを考えるとき、果たして何を思いつつ論ずるのであろうか。新書だから仕方がないのだが、この視点は本書からは微塵も感じられない。
 高村光太郎の詩も取り上げている。「あなた」と呼ぶのは形の上では智恵子であるけれども、その背後に「至高のあなた」を重ねたような「あなた」となっているのであり、ただの智恵子ではない、という読み取り方をする。必ずしも説得力がないが、この光太郎の次に、川口武久さんというALS患者の言葉が最後に引かれる。
  あすになれば ののはなのように ちんもくのせかいにみをゆだね
  あるがままにいかされて めぐみをうけてほほえもう
 こうした言葉を遺す方であるが、私は次の引用にはっとした。
  にんげんにとって ほんとうのまずしさは しゃかいにみすてられ じぶんはだれからも ひつようとされないとかんじることです
 この川口さんはイエスを信じ洗礼を受ける。「貧しい者は幸い」という言葉のひとつの真意をここに見事に表していると私は驚いた。地の民であれ、たんにエリートたちに律法の点で見下されていた人々であれ、見捨てられていた人々にイエスは確かに福音を語ったのだということがしみじみと分かった。これは川口さんの「信仰告白」のなかにあったのだという。
  私はあなたに頼ります 私の力では何もできません
  あの人この人と 見比べてばかりいる私をお許し下さい
 これは信仰者からすれば共感できる素直な信仰だと思うのだが、著者はここに「神」という語がないから「あなた」を自分の思い描く「あなた」の解釈のほうでこそ理解してよいのではないか、というような形で、そこに救いがあるのではないか、と少しばかり曖昧な形で本論を結んでいる。社会に戻れない自分に苦悩するのは格付けの意識をここに読み込んだのだろう。だがこれは、明らかに信仰というものを知らない人の、強引な解釈であろう。許す存在としては、著者が想定するような世代の紡ぎのようなものを考えているとは思えない。キリストを知る者には、いたってアーメンと言えるような信仰の言葉が、ここでいう「あなた」の哲学の理論で説明できるというのは、考えられないことのように思う。
 意図的に宗教や神というものを外してなんとか説明しようとしてきた一冊であったが、最後にキリスト者の切なる信仰告白を用いたのは、説得力を大いに減ずるものとなってしまった。しかし、「あなた」の呼称や人称のことをいろいろ深めて考えていくにはよい材料を提供してくれたと言えるかもしれない。すでに古典となりつつある鈴木孝夫の『ことばと文化』の中で、人称代名詞と呼ぶものを日本語に当てはめることの無理を解説している。自称詞と他称詞が固定せず、その場での役割あるいは関係を示し確認する機能を果たしていると指摘している。そうすると「あなた」というのも、日本語において、実は中心をなすような言葉ではないのではないか。ひとつの役割に過ぎないのであって、「あなた」というものが核心にあってそれを論じようとするのは、恰も天動説にこだわって、周転円を小刻みに想定しなければならなかった時代のように、複雑な図式をすっきりしない形で提示することしかできない問題設定であったのではないか、そんなふうにも思えてしまうのである。改めて別の形で、結論ありきではなく、また神と向き合うのが日本人には不向きであればそういうところを抜きにして、再度問いを立てて訪ねていく歩みをなさってみてはどうだろうか、と素人ながら考えてみた次第である。




Takapan
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