本

『若者に届く説教』

ホンとの本

『若者に届く説教』
大嶋重コ
教文館
\1200+
2019.4.

 教会に若者が来ない。教会の平均年齢は毎年確実に上がっていく、というのは教会員が増えない、という現実をも反映する。この問題に使命を覚える一リーダーは、かつても若者と生きる教会というテーゼを提出し、同類の本を著している。今回題を決めた経緯については「あとがき」に記されているが、テーマの中心はやはり「届く」である。語る立場からの視野に見えるものが扱われていくことになるのだが、この「届く」という概念は私にもたいへん魅力的だ。説教者も、若者に対して語っていないわけではない。ちゃっと謙虚に学び、礼拝その他の中で語ることを忠実にやっているつもりである。若者はそれを聞いている、だが届かない。その心に入っていかない。その人を変えることができない。青少年のリーダー的存在として「礼拝・CS・ユースキャンプ」で聖書から何かを語ってはいても、届いていないという感覚は、ほぼ常に感じているように思う。いつも届いているさと豪語する人がいたら、むしろその霊的状態が激しく心配である。
 KGKと呼ばれる大学生伝道のトップを経験した著者は、これまで若い世代のオピニオンリーダーとしての役割も果たしてきた。もちろんそこに至るまでに失敗もあったことだろうが、失敗を通して、いっそう使命に燃え、若い世代に呼びかける言葉を探し続けてきたはずだ。同様の狙いの前著が「若者と生きる教会」というテーマで、ずばり若者への伝道や教会へのつながりを意識したものであったが、今回は説教を中心に据えている。そうなると語る牧師のためのものでしかないのか、とも見えるが恐らくそうではない。むしろこのタイトルの重心は「届く」にあると私は見た。そうであれば、いわゆる礼拝説教のみならず、若い世代に日常投げかける言葉そのものであっても、届くか届かないかが非常に重要な観点であるはずである。これはきっと、教会関係者全員のためのものだと思う。
 本書は前半では、説教を五つの要素に分析し、それぞれが聖書の中で別のギリシア語を用いて登場することから、それを鍵として説明する。著者自身の体験に基づいてもいることから、非常に読みやすいし、また説得力もある。また、キーワードである「届く」とはどういうことか、についても冷静に考えているところに好感がもてる。そもそも「届く」とはどういうことをいうのか、にまず目を向けているのも哲学的でよい。当然そんなことは何のことか分かり切ったものとして議論を始めると、読者との理解の違いに気づかないままにひとり勝手に喋ってしまうことになるし、なにより、肝腎の読者にこの本の言葉が「届かなく」なってしまう虞があるからだ。
 続いて後半では、エマオ途上で二人の弟子がキリストと出会う記事を素材として、そこにある一つひとつの言葉に留まり、またそのときに自分もまたそこにいるものとして想定し、言葉を届けるというのはどういうことなのかを体験するかのように味わっていくような企画が用意されている。これもまた私たち読者に「届く」ものだと感じた。つまりは、より実践的に、「届く」とはどういうことなのかを教えてくれるということである。
 確かにそれは、語る者の「説教」というものを題材にして記述されていく。やはり説教者のための本であるような勢いを感じさせる。しかし、最後にはその言葉が「届いた」後のケアまで視野に入れている。聖書の言葉が、救いの言葉が「届いた」としても、それで信仰生活が終わるわけでも、安泰となるわけでもない。むしろそこからが始まりである。若者もいずれ年齢を重ねていく。そのためにまずは教会の一員として、キリストのからだとして養われていかなければならない。教会共同体を建て上げていく信仰の中へともたらされ、つながり、そうしてまたキリストの喜びを伝えていく者と成長させられていく必要がある。本書はそこまでを視野に置いて、「届く」ということを捉えているのだと思う。
 最後に、別原稿として、実際の悩み相談のコーナーが付けられている。生々しい相談とそれへのアドバイスは、もちろん細かなところに気を配りながら、単純に聖書の言葉を武器として一刀両断に決めつけてしまうようなことなく、言葉を届けようと努めている様子が伝わってくる。自分で祈り考え決断したことについて全力で応援する、そうしたアドバイスができる牧師というのは、頼もしい限りである。それこそが、神への信仰・信頼と呼べるものではないかと感じる。
 読んで損はしないはず。いえ、この貴重な経験の足跡を、私たちもぜぴ辿らせて戴きたい。そして、著者自身、また若者から世代が離れていくことを考慮しながら、いつまでも同じことはやれないことは十分承知している。自分も歳を重ねていくし、時代も変化する。こうした祈りと実践が、さらに若い世代の伝道者に受け継がれていくことを切に願っているはずである。それをまた「届けよう」としているわけだから、私たちはそれを「受け取ろう」ではないか。その「私たち」というのがいまどんな年齢層に属していたにせよ、何の遠慮もいらない。




Takapan
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