本

『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』

ホンとの本

『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』
リルケ
高安国世訳
新潮文庫
\324+
1951.1.

 詩人リルケの手紙好きとでもいうのか、面倒見のよさというか、忠実に手紙を書き、相談にアドバイスしている様子が窺える。ある詩人からのレターに応え、アドバイスを続ける一連の手紙を、その詩人が有していた。また、いまひとつ素性が分からないが、困難の中にある女性に寄り添うような手紙を幾度も認めたリルケの手紙がまとまってここにある。
 手紙そのものは、文芸作品として著されたものではあるまい。だが、さすがリルケである。文芸作品としての気品に溢れた、鑑賞に堪える文章となっている。もちろん細かな事情は、手紙を交わしている二人にしか分からない部分もあろう。しかし、もっと一般的に、こうなのだ、という指摘があると、普遍的に肯くに値するものとして提供されていることを強く感じるものである。
 いまのような瞬時にして届く電子媒体の言葉の対話ではなく、数日をかけて相手に届く故にひとまとまりの思想をまとめておかなければならない事情にある手紙というものは、少し前までは当たり前の文化であった。そして私も実は、リルケと同じだなどというとんでもないことは言わないが、ひとに対してこのような形で手紙を送り、また送られるということは日常的な営みであったことがある。それだけに、このような形で思いを綴るという心理や事情が、理解できないわけではない。いや、むしろしっくりくると言ってもよいだろうと思う。
 気持ちが昂揚して、自分の中の深いところをどんどん明らかにしていくということも起こる。ここまでいまは言わなくても、という思いの核心を明らかにすることもある。ともかくもいま言っておかなければ、数週間後、数カ月語にしか明らかにできないかもしれないのだ。こうした時間の熟成が、手紙というものにはある。
 それで、読者も一つひとつはこれらに触れて味わうべきだと思うのだが、どうしても触れておきたいことにだけ、ここでは触れておこうと思う。それは、リルケの孤独を愛する思いである。ひとり孤独になり、自分の深みに沈んでいくこと。そこから湧き上がるものこそが、むしろ普遍的な言葉となっていくこと。呼ぶならば、偉大な内面的孤独とでも言うべきもの。それはリルケ本人が辿った道であったことだろうし、リルケという人間そのものであったことだろうと思う。それは、もし書くことを止められたならば、死ななければならない、というほど自分自身そのものであったはずであるし、その自分の感情が正しいものだという確信に満ちていなければ生きていけないものだったはずである。その孤独に対して、迷う必要などない。この孤独に対して欺瞞をもってはならない。すべてはそこから出発しなければならないのだ。その勇気をもちなさい。
 むしろ動かない未来へ向けて私たちが動いていく。そのような未来があることを信じて待つこと。それに出会うために、孤独を保つこと。よけいな風評、世の惑わしに目を奪われ心を引き裂かれてしまわないように。
 こうなると、詩人のため、文芸のためというよりも、私たち誰もにとり必要な、人生の指南書であるようにも思えてくるではないか。昔の若者は、こうして人生論を好んだような気がする。私はそうだった。そしてそんな私は、大正期あたりだろうか、同様に個人の孤独に深く潜り込み沈思黙考した思想家たちの書が巷に溢れ、若者たちはこぞってそれを手にした時代があった。もう古いのかもしれない。百年前の作品など、時代遅れも甚だしいと捨てられるのかもしれない。見向きもされない部分は確かにあるのだろうが、それでも、今のような時代になる前の、時代の加速期にあったようなときの心を見つめる言葉は、まだまだ生きて味わう必要のあるものであるだろうと私は信じる。
 詩人リルケの作品の中でまず読むものとして、訳者は本書を挙げている。それだけの意味のあるアドバイスであるだろうと私も同意する。いや、私はリルケの詩をまともに味わったこともない無教養な人間ではあるのだが。




Takapan
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