『夜も昼のように』
小島誠志文・森本二太郎写真
教文館
\1200+
2006.1.
第2弾となる『光は闇のなかに』を先に見つけて読んだ。というより、贈った。人を癒やす写真と言葉。聖書の言葉を掲げるだけでなく、そこから思うことを、人の言葉で短く綴る。聖書の解説ではない。聖書の言葉を、さらに優しく人の心に伝わるように、解きほぐす。
その本は2022年の発行だったが、本書はそれに先立つ最初の試みだった。ずいぶんと間が空いたことになるが、同じコンビで、十分機が熟した中で造り上げたものだった。その先駆となる本書は、初めてこしらえた新鮮さに満ちており、しかも完成度が高かった。ただ、後編を先に見た者からの印象は、前編の方が、かける言葉がやや長いように感じた。できるだけ詳しく説明しよう、という気持ちが働いているかのようである。続篇の方が、より簡潔に、引き締まった短文になっていたように見えたのである。
が、とにかく写真が美しいし、そこに溶けこんでゆくような聖書の言葉についてのショート・ショート・メッセージが心に染みる。
「ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。」この言葉に続いて、このようなメッセージが始まる。「神はひとりを追い求められます。/神はひとりと出会うことを求められます。数で処理されません。」イエスのこの譬の突飛さに目を奪われ、時にその九十九匹はどうなるんだ、といった邪念にこだわるようになる前に、「それはあなたのことだ」とストレートにぶつけてくる。自分が聖書の中の登場人物になり、いま目の前でイエスが自分に向けて言葉を投げかけてきている、というその場に置かされる。これが、聖書からの本当のメッセージの姿勢である。
そのためには、語る者自身が、その経験をしなければならないだろう。その言葉を生きたかどうかは別として、同じようにその言葉をイエスの口から向けられて、試され、探られ、胸を貫かれて、そして立ち上がらせてもらうという経験をしなければならないだろう。牧者は、そうやって、イエスの羊を牧する者となってゆく。
本書を手に取り、その写真に魅入られると共に、言葉が自分の中に注がれ、そこから神の力が立ち上がるとき、さしあたりその日一日を生きる力になるものだとは思うが、やがてそれが確かな歩みとなり、きっと周りの人や社会へも、愛を漂わせ、何かを変えてゆく存在となってゆくのではないだろうか。
ひとりのあなたへ。この言葉が伝えられる。そのとき、隣りに真っ赤なカラスウリの実が、枯れた葉の間に、確かに輝いている。私の目がそのひとつの実に注がれるように、神の眼差しは、ひとりの私に注がれている。イエスがペトロを振り返って見つめたような視線なのかもしれない。ダビデが、逃れられないと覚悟した神の目がそこにあるかもしれない。しかしとにかく、ひとつの実が輝いている。
「お前たちの心を引き裂け。/あなたたちの神、主に立ち返れ。」と、ヨエル書の言葉が掲げられる。「主に立ち帰る、ということはどういうことでしょう。自らの心を引き裂くことであります。自分は正しい、まちがっていない、と言い張っている限り、目はくもっています。自分の罪、あやまちを認めることができたとき、わたしたちの前に立っておられる神を見出すことができるのです。」写真は、広い池の上に浮かぶ蓮の葉の数々。かすかなさざ波を立てた水面に浮く蓮の葉、散り散りにされたイスラエルの民の不安な漂いを使用超しているのかもしれない。捕囚の民として歩かされ始め、不安の中にいる様子なのか。しかし、神は約束をしてくださったではないか、と、互いに励まし合っている最中なのかもしれない。これは自分たちの罪の故である、その自覚から、初めて勇気を与えられることになるのだ、と思い知らされているのかもしれない。
本の題は、「あなたには、やみも暗くはなく、/夜も昼のように輝きます。」という、詩編139:12の口語訳から取られている。「人間にとってどんなに暗い日も、神にとっては暗くない」というメッセージと共に、そこだけ光が当たった山間の羊歯の写真が語りかける。暗いじめじめした山地にも、光は届いているのだ。派手な輝きはないかもしれないが、確かにそこにある。確かに光が当たっている。私たちは、一つひとつの写真と言葉から、慰めと勇気とを与えられる。言葉にすらできない写真との対話が、霊を豊かなものにすることであろう。

た
か
ぱ
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イ
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