本

『世の光イエス』

ホンとの本

『世の光イエス』
大貫隆
講談社
\1800
1984.1.

 新約聖書についてのある講義で使っているテキストだということで、興味はあったが、入手するチャンスを逃していた。正確に言えば、値が下がるのを待っていた。いますぐ読まなくてもよい場合、「ほしいもの」リストに入れておくのである。
 荒井献氏監修による「福音書のイエス・キリスト」というシリーズの中の一冊。この監修者からも見当がつくかもしれないが、シリーズは五冊ある。福音書は四つというのが新約聖書であるが、トマスによる福音書を加えるのである。古いのは古いが立派な本なので、簡単に値は落ちなかったが、少し下がったところで、いまが読み時だと判断した。
 大貫氏の読み方は、その後も岩波新書などでも知られているし、ギリシア語の入門書や資料の編集などで私にとってはなじみがある。なにがなんでも信仰の眼差しで読むというのではなく、聖書を冷静に取扱い研究するタイプであるから、本書の姿勢も予想がつかないわけではなかった。発行時からいま読むこの時まで30年以上を経ている。ということは、この本が出たときには斬新な意見として受け取られていたことも、すでに常識となっているところが多く、さして驚きはしないという説、あるいは一般にも定着してきた説である、とも考えることができる。もしかすると、当時の推測とは違う方向に、発見や学説の展開が見られるというところもあるかもしれないが、いま概ね、本書が提言している方向が研究の主流になっていると見てよいと思われる。ということは、執筆時に多少勇気が必要であったかもしれないものが、その後適切であると認められてきたということにほかならないし、本書がこうして残るだけの価値をもっていた、ということになる。確かに、だからこそ、いまの新約聖書の講義のテキストとして用いられているということなのだろう。
 その読み方は、ヨハネの属する共同体というものがあって、その共同体の教育を目的として記された、というのは的を射ていないだろうが、この共同体において読まれるべきイエスの姿を、他の福音書について彼らがどのように知っていたかは確定できないにしても、この共同体がいま置かれている情況へ問いかけるイエスの言葉と共に描くという記録であったとするものであろうか。こうした方向性を読み解く前提とするだけに、当時の社会的情況について丁寧に解説をまず行う。福音書が、抽象的な真理を解こうとして書かれるものではなく、生きた人間を相手に、またそれを思い浮かべ、そしてそうした人々のために異化されるうにつくられるという、いわば当たり前の動機や過程を示すのである。
 ヨハネ伝は、挿入が問題となる。どうもつながりの悪い部分が幾多も見られるのだ。あの告別説教あたりはそれが甚だしく、どう考えてもそのまま読むのには抵抗がある。そこで、ある場所からここまでを挿入と見なすと、筋がきれいに流れ始める、そうした読み方が近年提唱されている。本書も、そのあたりかなり断言的に、ここは挿入だ、と決めてかかのような言い方をしている。学者たちには常識なのかもしれないが、一般読者はやや戸惑う感覚をもつであろう。また、その挿入箇所についても、細かく見れば、その後の研究により本書とは少し意見を異とする分け方をする場合も考えられるだろう。そうした点が予想されるだけに、読者がこの挿入の適不適について調べることができるような手段が示されると、より親切であったかもしれない。ただ、一般書としての性格からして、そこまで要求するのは酷であろう。
 福音書の構成を論じると、次はここに描かれたイエス・キリストとは何者なのかという角度から探り始める。ヨハネの中のイエスは、すでに復活したイエスなのであり、なにもいまふうの伝記のように描こうとしたわけではない。ともすればおとぎ話のように見えるほどに、あまりにもできすぎの栄光に輝くイエスが終始語るのである。それはその通りだ。私は、このイエスはやはり「スーパースター」なのだと称することにしている。ミュージカルだ。これは、突然せりふを歌って踊り始める、あのミュージカルとして描かれているに違いないのだ。そこに人間くさいものを感じることは殆ど不可能である。こうしたことを、より丁寧に辿りながら説き明かしていくという部が本書に用意されている。
 ヨハネ共同体のために書かれたであろう本書である。イエスの後半世紀を経た教団の信徒のために、実際に見たことがなくても信じることのできるイエスの姿を明らかにしようとするという形で、かつてのイエスの生涯に重ね合わせながら、いまの共同体へ生きてはたらくメッセージを同時に成立させる構造がここにある。しかし、そうした一種の普遍性をもつイエス像であるならば、二千年の時を超えて、私たちの「いま」においても、同様にこのイエスが現れて然るべきではないだろうか。ヨハネは二重構造しか考えていなかったかもしれないが、私たちはさらに私たちへ、否私自身へ、呼びかけてはたらくイエスと聖霊をここから確かに感じるものである。それは、いまここに受肉する神の子が現れるということでもある。
 ダイナミックな出会いへ、本書は導こうとしているように見える。できれば、本書の中からではなく、本書を閉じた後、ヨハネによる福音書に没頭して、それを達成して戴きたいと私は願うものである。




Takapan
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