本

『読みにくい名前はなぜ増えたか』

ホンとの本

『読みにくい名前はなぜ増えたか』
佐藤稔
吉川弘文館
\1785
2007.8

 歴史文化ライブラリー236。手軽な一冊である。
 塾で教えているので、実感する。子どもの名前が、読みにくい。英語風の名前には、少しは慣れてきたので、警戒して、こうではないか、と予想もする。しかし、それ以前に、普通こうだろう、と思って読むと、全然違う特殊な読み方をしているということが、次第に多くなった。
 塾では、ついに、カタカナ読みも横に並べて表記するようになった。でないと、読めないのだ。
 珍しい名前だと、すぐに覚えてもらえる。こんな楽観主義から、親はつけているのだろうか。めったにないような、特殊な読み方をさせることで、子どもが個性的になると思ってつけているのだろうか。たしかに、名は体を持つ。名はその存在を規定する。言霊信仰によらなくても、名と存在というのは、古来の哲学の重要なテーマでもあるし、民間的にも誰もが信じていることの一つでもある。
 しかし、昨今の名前の読み方の奇妙さは、目に余りある。著者も、そう感じている。旧い人間だから、そう思うのだろうか。
 日本の法律では、名付けるときに使う漢字や文字は制限を受けている。しかし、その読みは制限されていない。極端に言うと、どう読ませようと、自由なのである。
 著者は、古来日本において、名付けがどのように行われてきたか、歴史的に名前はどう捉えられてきたか、資料から追究する。戦国武将などで、幼名から名前が変じていくことがあるが、そうした背景にも触れている。
 日本においては、実名で呼ばないことが敬意であるという慣習がある。名前でなく「社長」「横綱」と呼ばれるのが、最高の栄誉なのである。こうした伝統が、はたして特殊な読み方の名前で変わってきているのかどうなのか。
 結局、この本では、特別な結論が出ているようには見えなかった。様々な実例が挙げられていることや、古い資料が出されているのは味わいがあったが、だからどうなのか、という点では、何か意見が述べられているようには感じられなかった。ただ、ことさらに読みづらい名をつける親については、著者は教養の点であまりよい印象をもっていないようだ。
 名前は、人から呼んでもらうためのものでもある。なぞなぞで、自分のものなのに自分で使うよりも人から使われることのほうがずっと多いものな〜に、というのがあった。もちろん名前である。この名前が、どこか自己満足的な特殊なものであるということは、他人から認識されて確立する自己というあり方を、どこか拒否しているような恰好でもある。これは、自己の確立について他人を必要としない、というような立場を言明していると見なされる可能性がある。こうして、自己の確立の仕方そのものに、従来と異なる要素が飛び込んでくることになるかもしれないのである。が、著者はそうした構造には関心がないらしく、触れられることはなかった。
 私たち読者が、これを深めて考えていくようでなければならないのかもしれない。




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