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『読めない人のための村上春樹入門』

ホンとの本

『読めない人のための村上春樹入門』
仁平千香子
NHK出版新書740
\930+
2025.3.

 タイトルがいい。短い言葉で、要点をちゃんと表現している。その点を最初に説明しているわけだが、私の見立てた通りであった。実際手に取ったものの、読んでいてわけが分からない、と思う人のためでもあるし、どうにも手が出ないで敬遠している、あるいはなんとなく近づきたくない、そういった人のためでもあるわけだ。
 その割には、本誌には、村上春樹の作品の幾つかが非常に詳しく説明されている。物語の筋を全部書いてしまったのではないか、と心配するほどだが、そうでもしないと、村上春樹の仕掛けたものや狙いのようなものについて、触れることができないのは確かである。
 ただ、私が懸念するのは、本当に読んだことのない人に、この解説は伝わるのだろうか、ということだ。幸い、私はそれぞれ読んでいる。だから、ふむふむとも読めるし、そうだったのかと気づかされる思いも与えられた。つまり、知っていることや思い出せることが多々あるが故に、十分楽しく読むことができたのだ。だが、本当に何も知らない人は、これをどのように読むのだろうか、ということが分からないのではないか、と心配している。
 それはともかくとして、著者が村上春樹にここで固執している理由のひとつは、世界で読まれている、という点である。世界レベルで読まれているものについて、当の日本人がその意味について何も知らないでは済まされないのではないか。また、それは実際に社会的にも考えるべき課題がある、ということも、村上作品を読む意義だと言えるであろう。
 著者は「はじめに」に於いて、その大きなテーマとして、「自由を生きる」ということだと宣言している。もちろん、「自由」という語には様々な意味や理解があり、遣う次元によりその価値すら変わってくるようなものである。だが村上は、「世の中では少数派に属するタイプの人間を主人公として、自由に生きることの困難を描いている」のだとしている。
 他方、文学研究というレベルからしても、まだまだ探究が足りない、とも言っている。そして村上文学の性格について、「苦しみ悩む人々に寄り添い、人生と向き合えるよう背中を押す文学」である、と説いている。
 さらに、「はじめに」では、この村上のひとつの変化が、オウム真理教事件にあることに触れて、『アンダーグラウンド』と『約束された場所で』という、被害者に、またオウム真理教内部の人に、時間をかけてインタビューしたものをまとめた本のことを詳しく説明している。加害者そのものではないが、加害者サイドにいた人たちからの声を誠実に集めた後、村上は恐らく、「自由を自らの外に求める態度」を彼らがとったに違いない、と見ているのであろう、と著者は言う。「自由を得ようとして、絶対的な教祖に帰依することを選んで」いたからである。そこに「自由の放棄」がある。だが、「客観的な事実より、「それぞれの目に映ったもの」という「真実」に価値を置く」ことが、村上春樹という小説家の態度である、と核心を告げている。  まずは、総論的に、世界で読まれているあり方や、村上春樹の考える「自由」の概念について検討するところから始める。また、「橋を焼いた」作家というふれこみで、群像新人賞を受賞した後、ジャズバーを閉店したことを挙げる。退路を塞ぐというよりも、もっと激しい決断のようなものを感じる。
 さて、村上作品を縦横に引用して、著者は様々な風景を読者に見せてゆく。必ずしも系統立って構築したコースを提供しているわけではないようだが、本書もまた村上作品のように、気持ちよく読者を引きずり回してくれるという感じがする。
 そのうちようやく、『ノルウェイの森』と『1Q84』をまとめて語る。確かに前者は、事件の後年から主人公が過去を振り返る場面から始まり、そこにこそ「ノルウェイの森」が関わってくるのだが、物語の結末ではその現在に戻ることがないまま、実に中途半端に終わる。そこには、「僕は今どこにいるのだ?」との問いがあっただけである。しかしこれは、キリスト者ならばその信仰生活の中できっと経験している問いであろう。自分が何をしているか分からない群衆の中に自分を見出すばかりか、「あなたはどこにいるのか」と神に問われたアダムと同じ経験をして罪を思い知らされた私のように、「どこにいるのか」の問いは、信仰の根源的なところにあると思われる。
 善悪二元論で片づける安易な思考法を戒めたかのように、『1Q84』を読むのも大胆でいい。もちろんそれだけがテーマではないのだが、カルト宗教のある種の恐ろしさを痛感したであろう村上は、宗教との格闘をもしなければならなかったらしい。
 次には「かえるくん」や「ドライブ・マイ・カー」や『海辺のカフカ』を一つひとつ取り上げて、物語を辿りつつ、ひとつの論点を掘り避けて紹介する。私は新海誠氏の声を直接知らなかったのだが、やはり「すずめの戸締まり」はこの「かえるくん」をモチーフとしていたことがここに明らかにされていて、納得した。が、ここはアニメ作品を論じる場面ではない。しかし何気ないようにも見える、あるいは不思議極まりない設定の村上作品の二課に、「与える愛」から「内なる意識と外なる世界」まで、壮大なテーマを織り込んでいるものとして読み解くのは、きっと楽しい作業であっただろう。読者はそこまで言語化しない。ただもやもやと、何かを心に騒がせながら、ストーリーに誘われて進むだけである。また、ナカタさんとカフカとの二つの観点から『海辺のカフカ』は切り取られてゆくし、そこには「ゆるし」の問題も隠れていることを指摘する。「ゆるす」とは「ゆるめる」や「緩し(ゆるい)」に由来すると言われる、とあった点にはハッとさせられた。「恨みや怒りで心身を硬直させれば、自分を脆くします」というのだ。
 最後の章は、もう少し社会性を問う考察に進んでから、終わる。しばしばそういうシーンがあるのだが、スパゲティーを茹でることに豊かさを覚えたのは私も同様であった。が、実は私の生活はそれに近い。自分は豊かな生活をしていたのだ、と気づかされて愉快だった。お金はないけれども、豊かだったのだ。また「像の消滅」は寓話にしても、なんだかモヤモヤが残る。「パン屋再襲撃」は、どうして奇妙な事態がああも起こるのか不思議だったが、「襲撃」を「交換」にさせられようとたことへの抵抗があったというのだ。よくよく練られた構成と事件だったのだ。謎解きを狙って読むという人がいるかもしれないが、どう読まれようと構わない建前の作者にしても、作者なりにこめた意味というものは確かにあるものだと改めて思わされる。
 村上春樹は、「ひとりひとりが持つ物語の力を信じている」のだという。そのことが「おわりに」に力強く述べてある。待ち受ける壁は自分が作っているのだ。最後に、私の心に強く響いてきた「おわりに」の一部を引用して結ぶことにする。
 「誰もが持つ固有の物語にじっくり耳を傾ければ、小説の主人公に対してそうするように、共感したり寄り添いたくなったり、応援したくなったり、元気をもらったと感じたりします。また自分に対しても、自らが持つ物語のパワフルさに気づくことができれば、唯一無二の人生を生きていると自覚でき、自尊心を育むことに繋がります。自らの人生を愛おしく思うようになります。自己信頼が高まり、生きる勇気が沸いてくるのです。」(p248)




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