本

『休むヒント。』

ホンとの本

『休むヒント。』
群像編集部編
講談社
\1300+
2024.4.

 だらっとした人物が線で軽く描いてあるように見える。シンプルな表紙だ。正に「休む」ということを伝えている。本の表紙というのは、実に工夫がなされているものだと感心する。
 文芸誌『群像』がライターたちに依頼して、「休む」をテーマに連載してきたものを集めたものらしい。こうまで「休む」にこだわると、「休む」についてのカタログのようなものが出来上がるようで、たぶん連載をお読みの方よりも、一度に見られて、より効果的に「休む」ことについて思いを巡らすことができるのではないかと思う。また、本書には、様々な生活スタイルや人生観が鏤められていて、それをここでご紹介することは控えるつもりだ。ぜひ手に取ってご覧戴きたい。
 一人あたり6頁ずつ、というのは雑誌の枠であろう。ここでの読者も、ちょっとした時間の合間に、一人ひとりのお喋りを聞くようなつもりで楽しむことができるというわけだ。
 さて、この「休む」について、人様々に綴っているということだが、私だったらどうだろう、とも考えた。というのは「休む」に対比する考えを持ち出すのが話しやすいのだが、「仕事」が反対のものなのだろうか、という疑問が起こるからである。多くの人が、「仕事」に対して「休む」ということを書いている。それはもちろん悪いことではない。だが、そのことをちょっと意識した人も、いるにはいたにせよ、多くは、当たり前のように、「仕事」から逃れることについて、思いを書いている。中には、「休む」そのときにも、自分は仕事をしていることになる、という視点を紹介した人もいた。作家ではあるが、会社員としての職業をももっており、朝の時間や土日を作家活動をしている、というのである。これだと、何が「休む」ことであり、「仕事」とは勤務であるのか、ということが分かりにくい構造になる。
 ではその「仕事」とは何だろうか。「労働」と言い換えてもいいかもしれないが、多くの人は、暗黙の前提として、何らかの拘束を受ける時間を意識しているようにも見える。しかまた、それは報酬を得るためでもある。だから必要なことなのである。他方、たとえば家事については、それが収入そのものにはならないのではあるが、拘束される「仕事」であるとも考えられ、家事をすることを「休む」ことだ、とは認識しにくい。
 もしかすると、仕事が趣味のようだという人の中には、仕事をしていることが、十分自分の「休み」であると意識している人が、いるかもしれない。そういう人がいても、構わないのだろうと思う。その意味では、「休み」の反対が「仕事」であるわけではない。
 その人にとっての「休み」の定義や世界観のようなものがあって、一概に「休む」ことが同じ方向に見られるわけではないのだろう。だからまた、「ヒント」という題名があり、テーマがあるのだろうとも思う。これは「ヒント」である。「休む」ことについての決定打ではない。指南書ではない。それぞれの人の個性が輝く、人の「休む」ことへの思いが並んでいるのである。
 全く「休む」ことがない人がいるかもしれない。逆に、いつも「休む」だけの人生だ、と捉えている人がいるかもしれない。これは実に面白いテーマである。
 さて、そこで聖書である。聖書には、ユダヤ教徒並びにキリスト教徒にとり根本的な戒めというものがある。いわゆる「十戒」である。
 その第四に「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」と記されているのだ。そしてこれを、人間は「休む」ことだと理解してきた。神が天地創造を休んだ七日目は、人間も休まねばならない、というのだ。月の満ち欠けに由来するという考えもあるが、私たちは世界的にほぼこのリズムで休日を設けている。土日の違いや一日の始まりが夕刻であるなどということは、いまは措くことにするが、ともかく休日は七日毎にやってくる。
 イエス当時のユダヤ社会では、ことのほかこれに厳しい監視を向ける宗教者ならびに為政者が、上に立っていた。その日には「仕事」をしてはならないというのだ。イエスはその安息日に人を癒やした。だがそれは「仕事」であるとして目をつけられ、このことがイエスを死刑に導く準備となってゆく。
 安息日が「休む」ことであるという理解が基本だとすれば、果たしてその逆が「仕事」なのか。私たちがいま問うてみた問題が、ここに関わることが分かる。また、その「仕事」が、人を癒やすこととは違う、ということも、福音書から考えさせるものである。命が惜しいならば安息日に仕事をするな、とか、安息日にマナを集めても無駄だ、とか、旧約聖書には特に、安息日についてうるさいところがある。それを尊重しているはずのキリスト者も、日曜日に勤務はあるかもしれないし、買物やレジャーに出向くことはいくらでもあるだろう。安息日規定は、かろうじて礼拝の日程として保たれているに過ぎない、とも言える。
 すると、まさに礼拝こそ、「休む」ことの極致なのである。礼拝に行かねば、礼拝のためにせっせと奉仕しなければ、といった焦りさえ、そもそもの「休み」であるはずなのだ。このことについての私の理解はあるのだが、それはまた別の機会にお話ししたい。
 いろいろな人の「休むヒント」、覗いてみると楽しい。寝転がってこれを読んでいるとき、あなたはきっと「休む」ことができているのだろうと思う。




Takapan
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