『やさしい国語教室』
大村はま
共文社
\900
1978.10.
国語教育について何かを求めるならば、大村はま先生の言葉に耳を傾けるべきだ。私はそう考えている。時代的な制約もある。個人の考えの限界もある。だから無理に従わなくてもよい。だが、耳を傾けることは必要だ、と思うのである。
国語の力、あるいはことばの力は、生活をするための力になる。このような言明から本書は始まる。生活をする、というのは、さらに言えば生きるための力になる、とまで私は言いたい。大村先生も、恐らくそうだと思う。
国語ができることについても、始めのほうで述べている。「よく聞けて、よく話せて、よく読めて、よく書けること」なのだという。いま英語教育の合言葉にしていることは、これに従っているだけだとよく分かる。
こうした理論は、すべて大村先生の、国語教育に生涯を捧げたその経験に基づいている。だから、決して抽象的な思いつきの教育論がここに並んでいるわけではない。むしろ、どうかすると退屈なほど、教室で交わされた言葉が展開してゆく。実に具体例に満ちている。それは本当に出て来た言葉なのだろう。多少のアレンジがあったとしても、いくつかの場面でこぼれた言葉が、同じシチュエーションで現れたものとして並んでいる程度なのではないかと思われる。それは、私もささやかながら教育の現場にいるわけだから、同様に何か教育論めいたものを記すとすれば、そのようなするはずだからだ。
作文教育で、特に定評がある。「なにかわかるために書こう」という提言も、実によく分かる。「心をさぐるために書こう」というのも、正にその通りだ。自分の考えを書き表すことによって初めて、自分がこんなことを考えていたのだ、ということに気づかされることを、ものを書く人はきっと経験しているはずである。いったい何を書けばよいのか、それが頭の中ですべて決まってから、書き始めるのではないことを、書く人は知っているはずだ。とにかく書いてゆく。そうすると、不思議に、新たなものが生まれてくる。さっきまで自分の中にはなかったもの、自分の中に意識されていなかったものが、こぼれてきて形になる。
こうしたことを、教育の現場で生徒に体験させていくのは、簡単なことではない。自分で何かをするのであればまだしも、他人に、しかも抽象的に説明しても通じない中学生に向けて実践させるためには、独自の才覚が必要になるのだ。それが国語教師の賜物でもある。
たとえば読むことにも、その的確なアドバイスは届けられる。「一部分に書かれている、わかりやすいことを、全体と思わないように」というなにげない一言が、私に刺さる。文章を読んでいくとき、自分に分かりやすいこと、自分にとり都合の好いところが、自分の中にはすいすいと入ってくる。あるいは、そこだけが印象として残る。すると、文章に書かれてあること、筆者の伝えたいことが、完全に飛んでしまう。筆者との対話も生まれず、自分本位の世界しかつくらないような読み方を、私たちはえてしてするものである。酷い場合には、それで自分は全知全能になったかのように豪語して、魂が滅んでゆくのであるが、そうでなくても、伝令を適切に理解できずに、うまく仕事ができないということになってしまう。「読む」ことについての、このような突き刺さるようなアドバイスは、そう世間に見られるものではない。
授業は、気長に受けるものである。短期集中で一日か二日ばかり聞いただけで、エッセンスを取得できるわけではない。そのためには沢山の事例に触れ、経験していって、自分のものにしなければならない。本書でも、たくさんの授業を受けたような気持ちになる。多くの場面が紹介され、読者を丁寧にそれを辿るようにと促す。
こうして読み終えたとき、読者は覚らなければならない。国語について成長するということは、何かを得ることではないのだ、と。つまり、生きるためのことばの力が与えられるということは、自分が変えられてゆく、ということである。自分が変わる。この体験こそが、ことばがひとの命になってゆく、ということであるに違いない。
大村先生もキリスト者であった。神が「ことば」であるという聖書の記述を胸に置いていたと私は思う。だとすれば、神との出会いによってこそ、自分という者が変えられること、それこそが救いだということを、きっと意識なさっていたはずである。たとえそうでなかったとしても、私はそのように受け止めた。そう思えるように、私は変えられた。本書は、国語教師だけの宝物なのではない。

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か
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