本

『暮らしの中のやさしい科学』

ホンとの本

『暮らしの中のやさしい科学』
中野不二男
角川学芸出版
\1575
2006.5

 読売新聞夕刊に連載されていたコラムを編集したものだという。
 執筆業の人であり、ノンフィクション作家であるというから、科学の専門家と呼ぶことはできないだろうと思う。そのためまた、私たちと等身大の人物として、科学に対する不思議や疑問などを抱く思いを、共感することができるのかもしれない。
 事実、科学的な機能を説明しようとか、科学の理論を紹介しようとかいうつもりはないらしい。科学に少し興味をもつ人は聞いたことがあろうような言葉を前提として使い、新聞を読む生活をしているような人々が、「へぇ」と思うようなこと、あるいは「そうそう、そうだよな」と思えるような話が、たくさん並べられていて、楽しい。
 実際、文章の巧い人なので、読み物として十分楽しめる。時に口語調に呟くテクニックなどを入れ、読者により親しみを感じさせるようにしているなど、如才ない。
 それでも、である。新聞紙上で別の日に読むのと違い、連続してそのコラムを見ていると、明らかに特徴に気がつく。それは、文章の末尾部分である。多くが、疑問形なのである。
 それも「〜だろうか」と明らかに「分からない」「想像しているだけのことですよ」というふうなものが多い。もちろん、「〜ではないだろうか」式もある。これだと、可能性の高い推測ということで、筆者が実は主張したいことである、ということは分かる。また、「〜かもしれない」で終わるものもある。
 だが、こうした末尾は、読者の空想を広げる作用があるのは認めるが、こうも続くと、果たしてそれは本当なのだろうか、どの情報を信頼すればよいのだろうか、と不安になる。科学の読み物であるにしては、もう少しはっきりした情報を得たいという気持ちも、読者にはある。少なくとも私はそうだ。だが、所詮読者自身と同じ素人レベルの見解しかなく、少しばかり科学の見聞が広いというだけの内容であったら、それこそ「文章の綴り方が巧かった」で終わってしまう。
 こうした曖昧さが、タイトルの「やさしい」という意味であるとしたら、なんだか誇大広告のようだ。難しい理論を、やさしく教えてくれるのではないか、という期待には外れていることになる。
 断定をしないからこそ、素人としての読者の視線を保っている、ともいえよう。だが、それとタイトルとの間には、温度差がかなりあると感じた。




Takapan
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