本

『闇の奥』

ホンとの本

『闇の奥』
コンラッド
黒原敏行訳
光文社古典新訳文庫
\590+
2009.9.

 イギリスのコンラッドが1899年、41歳のときに書いた小説。何かお決まりの評価を与えられるのではなくて、絶賛から非難まであらゆる目が向けられるという。ヨーロッパ白人がアフリカで酷い制圧をしている様子を告発するのだ、という理解もあれば、決してそういうわけではない、と考える人もおり、様々な声があるという。逆に言うと、それは著者の思う壺であるのかもしれない。誰が見てもこの話はこうだ、とお決まりの読み方で終わったとすれば、文学としての価値に乏しいであろう。作品は読者の捉え方に委ねられているから、まるで生き物のように、それぞれの読者の中で自由に生き働くようなものだと喜んでいたかもしれない。
 船乗りマーロウがこの物語を語るという設定になっている。生活に困りはしない若者だった頃のマーロウが、フランスの商社にのほほんと入り、アフリカへ船出する。黒人が持ち寄る象牙を、二束三文の物品と交換していた。さらに奥地に、クルツという謎の社員がいるという。奥地にいるクルツのもとを訪ねるが、いろいろ危機もある。どうやらクルツは奥地で、あくどいことをしているらしい。このクルツは病の中にあり、結局死ぬのであるが、最後にこのクルツを愛する女にそのことを知らせるところで、またちょいといかした態度をとることになる。
 アフリカ奥地へ向かうときに殺されそうになったり、事実船員が殺されたりもするし、原因不明の火事があるなど、スリルはあったが、物語そのものとしては、特別な展開があるようにも見えないし、意外性というのが、クルツのあっけない死であれば、ますます物語の盛り上がりがどこにあるかと言われると困るかもしれない。
 だが、もし念入りに、登場人物とその性格などをノートでもしていくと、また出来事も一つひとつ気にしていくと、実によく組まれたからくりがあるように見えてくるのだという。作者はあまり出来事の背後を説明しようとしないので、よほど察して読んでいかないと、深読みできなかった政治家のように、寂しい思いをするかもしれない。多分に私もそうだった。
 あることの裏返しの人物や出来事が現れ、それを際立たせるために持ち出したのだということ、またその出来事の意味が、誰かの腹の中の思惑によって起こったのだというようなことが、もしも読めたら、しめしめというところなのかもしれない。
 だから、決して社会派の小説として、植民地による搾取を告発するようなことのために、コンラッドがこれを書いたようには思えない。もっと、キャラクター一人ひとりの絡みの微妙さや、言葉の中にちらりと見かけるような謎が、愉しむための仕掛けとなっているのではないかという気がしてくる。誰もがクルツなのだ、というあふりは、やはり読者はズキンとくるのではないだろうか。
 それにしても、このタイトルである。現代の最初の語は「Heart」であるから、「闇の心」というような辺りなのだろうが、これを「闇の奥」と受け取った日本人の数人の訳者、じつによく考えたものだろうと思う。また、物語の中にも時折「闇」という言葉がちりばめられていて、全体を低いトーンで抑えているのも確かである。万人に分かりやすい形でその「闇」が立ち現れるというわけではないだろう。しかし、読者は誰も、自分とクルツとをどこかで重ねるような気持にならないだろうか。何をどうと言葉で説明はできないかもしれない。
 訳者の解説によると、クルツの最期の言葉としての「恐ろしい」は、かつては「地獄だ」との名訳もあったらしい。そして、聖書でバプテスマのヨハネが現れた「荒野」を表すのに使われている言葉wildernessなのだそうだ。聖書だからというわけではないが、この「荒野」という意味を含んだ形で、クルツに言わせたのだろうという捉え方は、決して軽はずみな理解ではないと思う。
 わたしたちはこうした「闇」から無縁ではない。それを「罪」としなかったことが、コンラッドの「開かれた」小説にしたかった賢い選択であるだろう。これは読み返してみる価値のある小説だと感じた。いろいろな仕掛けに、少しは気がつくかもしれない。そして人間の罪ともいえる、心の闇に、少し痛いけれども、触れなければならないのではないだろうか。しかし、闇は光に勝たないのである。その光を、また思うものである。




Takapan
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