本

『病める社会の病める教会』

ホンとの本

『病める社会の病める教会』
勝本正實
いのちのことば社
\1260
2010.11.

 こういう本は、必要であるには違いないが、どうも素直にこういう場所へ持ち出せない気がしている。表に出してよいのかどうか、少しためらうのだ。
 何も、地上の教会を理想だと考えているわけではない。だが、その欠陥をあからさまに、これでもか、と並べ立てるのは好きではないのだ。
 だが、教会内で、これは逃げてはならない大きな問題であるのは確かだ。対処をしないままにほうっておくと、いつのまにかそういう事態に慣れっこになってしまい、まあいいかで煮え切らないままに時ばかりが過ぎていくことになる。
 そこで、ふだん教会では誰も恐くて口に出せないような問題点を、牧師としての立場からはっきり表に出し、それを改善していくようにはっきり問題化してみようというわけである。目の前で、信徒が教会を去っていくのを見る悲しみを、牧師としてやりきれないような、身をちぎられるような辛さと共に味わいつつ、この日本の社会でどのようにすればよいのか、祈り思案した末に行き着いたひとつの結論が、たぶんこの本なのであろう。聖書を独善的に解釈するばかりではますます孤立しあるいは道をそれて行きかねない人間としての性を、自らに火箸を押しつけるかのようにいじめ抜くつもりで、綴っていったのではあるまいか。
 それを、教会が病む、という表現にしたのが思い切っている。誰もそんなふうに考えたくないし、わざわざそういう言い方を世間に示して、教会というところについて疑心を抱かせる必要もないと思うだろうからだ。
 そもそも個人的な信仰ということがらについてまず考察し、次に地域社会における教会の立場から出てくる問題を、そして最後に教会の内部での教会故の問題点が並べられる。事が事だけに、あまり具体的に説明できないのは当然だ。あらゆる事柄についての見解を、具体例なしに抽象的に取り扱わなければならないのが、この本の弱点だ。だからそれは、どこか原則論のようになる。ということは、これをまたどのように解釈し実践に結びつけていくかは、多岐にわたるというわけである。
 こうなると、この著者の考えはまたそれでよいにしても、別の考え方というのがきっと起こることだろう。抽象的な議論の対立という形で進んでいくことも十分考えられるわけである。
 漠然と「教会」とあるが、やはり註釈が必要だろう。これは、小さく分かれていった、日本の「よくある」プロテスタント教会における問題が取り上げられている本である。著者自身、そのような教会の牧師である。そこで起こる問題は、おそらくカトリックで起こるものとはまるで違うと負われるし、聖公会やギリシア正教を持ち出すと、そもそも全く違う世界だと言ってもよいくらいになるかもしれない。となると、カトリックからしてプロテスタントは、いまだなお、分かれ出ていったグループという見解であるはずだから、それ見たことか、ということにもなりかねない提言の類となっている危なさがあるというわけである。
 信徒、とくにその信徒をまとめたり、教会形成に携わる実務にあるような人々は、この本に提示されたような問題を心得ておくべきだろう。だが、それを心得たからといって、果たしてどのように教会を運営していけはれよいのか、教会生活をどのように送ればよいのか、必ずしも分かりやすく示されるわけではない。それどころか、これはこの著者の教会におけるひとつの解決への道ではあるかもしれないが、他の教会では必ずしも適用できるものかどうか分からない。できるだけ適用可能なように、抽象的にしてあるのかもしれないが、それでも、これらはやはり一定のプロテスタント教会における問題点が多いし、その解決法にしても、なかなか広く適用できる性質のものではないかもしれない。
 しかしながら、よく読んでいくと、かなり実際的にどういうときにどうすればよいか、ヒントになる提案は確かに多い。その通りに進むかどうかは別として、閉塞した考えを打破するためのきっかけがないとも限らない。要は利用の仕方ひとつなのであろう。
 教会の基準が聖書にあるとするならば、私たちはもっと聖書に聞かなければなるまい。この本には聖書からの引用が殆どない。それには意図があると思う。聖書の言葉を引用して適用するならば、それは多かれ少なかれ、人をさばくようなことになりがちだからだ。そして聖書を引用した自分は善で、自分の解釈が正しく、それを適用すると相手が悪いということにすぐにつながっていきかねないのだ。聖書により自分が変えられていく、その体験からスタートする教会生活が望ましい、などと言っても漠然としすぎているかもしれないが、しかしこの本がいくら善戦しているとはいっても、ノウハウで教会が動いていくというものでは、やはりない。ひとつのヒントにする意義を失うことはないと思うが、これを基準にしていくことはできない。聖書の中に知恵のすべてがあるのだという考えがベースにないと、どうしても的から外れていく。
 そこで私は思う。神の救いは神のしもべとして受けよ。しかし自分の思いや行動は、ファリサイ派に属する寸前であると思いつつ、判断せよ。その中で、つねに聖書の中に光を求めていくことがどうしても必要なのだと私は痛感している。
 どうか、「うまく」この本を利用してくださるように。




Takapan
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