本

『ヤマト王権』

ホンとの本

『ヤマト王権』
吉村武彦
岩波新書1272
\861
2010.11.

 シリーズ日本古代史の第2弾ということである。第1弾を私は見ていない。著者は異なるが、内容的に古代史を概観できるように、扱う時代を区切って出版していくとのことで、第六に摂関政治を検討するところまで続く予定のようである。
 著者が最初に触れているように、古代史といっても、このヤマト政権以前の日本史は、考古学的な領域であると言ってもよい。なにせ文献というものが見当たらない。しかしこのヤマト時代からは、文献が存在する。もちろん、考古学的な裏付けや発掘も非常に重要なのだが、中国または日本における、文献が遺っている。歴史的な手法が異なるわけで、しかもその文献の比重が高まることが期待される。
 それにしても、当然ここでは、いわゆる邪馬台国論争から始まらなければならない。日本の文献資料としては、その辺りから始まるからである。
 ここで、私の住む福岡という地域が俄然クローズアップされてくる。ここは、邪馬台国そのものの説のひとつであると共に、文献的にも考古学的にも、古代のクニが成立していたことは間違いなく、例の金印というものもある。今の福岡市の辺りは、奴国という勢力があった。その後も、朝鮮に近いという意味から、日本の文化交流の窓口として極めて重要な立場を続けてきた。歴史の中で果たした役割は絶大である。
 しかし、ヤマト政権は結局近畿、奈良の辺りから始まった。邪馬台国とヤマト政権との直接的なつながりがあるのかないのか、こういうところから本書は始まる。著者は否定的な見解のようだが、妥当ではないだろうか。ただ、こうした考古学的な見解は、自分のもつ日本史観や、へたをすると郷土愛から、感情的に決めてしまうところがままあるわけで、実際九州に住む者には、邪馬台国は九州にあってほしいという心情がありがちである。
 それでも、ヤマト政権はそれとはまた別に、記・紀という確かな文献がある。いわゆる天皇の記録である。これが今もなお日本には続く天皇制の基盤となっているのだから、実にしつこいというか、日本が日本である所以であると見なされるような一本の筋となってしまった。世界には、王朝がかつて続いた、あるいは続いている国もある。実に長かった王朝にしても、ついに途絶えたという国が多く、また、王制があるにしても、血族の連続ではないという場合が多い中で、この天皇の血筋については実に異例である。しかし、その初期には神話が伴う。実在性が疑われる。よく言われるように、九代までは資料での言及も簡略で、付け足しのふうである。また、その他どういう根拠があるかも著者は述べる。かなり専門性の高い分野であるために、素人である私は不分明である。それでも、読んでいて面白いと感じさせるものがある。新書の魅力はそういうところにあるのだろう。
 歴史文献は、考えてみれば、権力者の論理である。自己の正当性を、容易に一般人が真似のできない文章という形で記す。これは後世に証拠として遺る。あたかもそれが真実であるということになってしまうし、後世の者からすれば、史料のすべてなのであるから、そうせざるをえない。だが、文献の成立のときには、それは権力者の虚飾であるというのが当然である。政党の出版する新聞が、自己批判をするだろうか。都合の悪いことは書かないであろう。手塚治虫の「火の鳥」には、ヤマト時代に、その歴史を書きのこす意味が描かれているところがあった。まさにそうなのだ。
 天皇制の成立にしても、いろいろな考え方がある。もしかすると、いくつかの権力争いの果てに、ひとつの筋が遺ったのかもしれない。とにかくその記録が書かれた点での事態が、その記録にどのように反映されているか、推理する楽しみもある。
 やがて仏教が入り、それをどう利用していくか、ということで、日本史らしい歴史が始まる。深いアジアの知恵も、日本にかかれば、日本流に変容していくのである。そういう日本とはいったい何なのか。
 現代においても、日本とは何かと問い続ける。日本人のアイデンティティの問題でもある。そういうとき、どうしても、この古代の歴史は関心を呼ぶ。本居宣長もそこに目をつけたのだろう。解決の終わることのない過去の論争ではあるだろうが、自己を問うということが、日本では、こういう日本という風土や空気に向かってしまうこと、そのこと自体が、日本らしいのかもしれない。決して、個人の魂や神といった方向には進まないのだ。
 全く、本の紹介にも書評にもならない。一読者の連想をここに流しただけで終わったようである。失礼。
 ただ、この2月、宮内庁が、応神天皇陵古墳への立ち入り調査を2時間だけ許可した、というニュースが入ってきたが、このような宮内庁の差し止めがなくなり、的確な天皇陵調査が全般的に行われれば、日本の古代史は大きく進展するであろうことは間違いない。もしかすると、歴史を自分の都合のよいように、という精神は、この宮内庁の論理であると言えるのかもしれない。天皇制について、何かが判明してはまずい、ということで。




Takapan
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