本

『遠い山なみの光』

ホンとの本

『遠い山なみの光』
カズオ・イシグロ
小野寺健訳
早川書房
\700+
2001.9.

 2017年、ノーベル文学賞を受賞。ロンドン在住でイギリス人とはいえ、日本の長崎出身であることから日本でも脚光を浴びた。落ち着いた小説は通好みのようなところがあり、しかも日本を舞台にしたり日本文化を漂わせたりする内容は私たちにも読みやすい場合があろうか。この作品をふと手にとってみたりは、これがまるで日本人による普通の小説のように訳されていたからだ。
 主人公は悦子。独り語りである。その娘はニキとあるから、その父親はイギリス人であるということになるだろう。しかし最初、緒方二郎という男と結婚し、景子という娘をもうける。小説は、悦子がこの景子を妊娠しているときのことを回想する形で展開されるのである。
 この辺り、注意していないと、時間軸が揺れているため、訳が分からなくなる可能性があることに注意したい。まずその景子が自殺したという事実を突きつけられるところから物語が始まり、いつの間にか過去の情景が延々と語られていくことになるのである。
 このように訳者がいろいろ考えた末、しかし原作者の意図もあったということを訳者あとがきで説明しているのだが、日本が舞台であるこという意味でも、それなりに考えた漢字をあてはめて表現してくれたことで、私たちにはたいへん読みやすく、また違和感を覚えさせない小説として感情移入もしやすくなったことには感謝したい。
 さて、その過去についてだかだ、佐知子という女とは長崎で知り合ったという。佐知子には万里子という娘がいて、この二人といやに親しく接するのであるが、悦子はどこか突き放して見ているような印象を与える。あまりに自分と違うような、それでいて何か放っておけないような、そしてなんだか反発を感じながらもそこから背を向けて離れていけないような、複雑な心情を醸し出す。物語は、この佐知子あるいはその娘万里子とのエピソードが中心となっていく。
 悦子の他の過去については、詳細には分からない部分があるが、太平洋戦争が大きな影響を与えていることは容易に見てとれる。原爆も何か関係しているようだ。そこを殊更に詳細に説明してしまわず、読者に想像を委ねているように見えるのだが本当のところはどうであろう。二郎の父親との接触が多く、その中で悦子について語られるような内容が、語り手の悦子のことを読者に知らしめることになるのだが、どこか錯綜としている感があることは否めない。
 どうにも言葉にできない何かがつっかえながら、悦子の中にあるもやもやとしたものが全体的に醸し出されてくる。それを言い当てることは難しいし、言い当てる必要もないのではないかと思われる。佐知子はアメリカ人と結婚して、アメリカに渡ろうとする。万里子はそれを極端に嫌がるのだが、悦子はしきりに行けと関わる。そして万里子が拾った子猫への佐和子の残虐な仕打ちが、その舵取りを強要したことを示す。
 何かしら象徴的に伝えようとしているものがあるかのようである。が、それを説明することが鑑賞ではないだろう。おそらく作者は作者の意図したものがあり、設定したことがあるのだろう。しかし戦争により傷つけられ、あるいは心の大切なものを失ったことや、そのごたごたの中で自分の娘に対して強いてきたことなどが、物語の宿命であるひとつの結論という形でもたらされたときに、ひとは自分を掴みきれず、あるいは自分を突き放してしまいたい思いを懐きながら、呆然と見送るしかないような事態に誘われることを、思い知るような気がしてくる。娘の自殺、そこに泣きわめいたり悲しんだりするというよりも、それを呆然と見ているような悦子の語りが、私の目から見て悲しくもあり、また悔いる思いをまだ出し切れない人間の弱さのようなものにも感じられるところである。
 果たして佐知子とは何ものか。その娘万里子とは。また、これらは本当にそうしたものを悦子が見ていたという回想であるのかどうか。ひとがこのように過去を見つめることがあるということに、気づかされたのは確かである。




Takapan
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