『約束された場所で』
村上春樹
文春文庫
\543+
2001.7.
先に『アンダーグラウンド』を読んでいた。オウム真理教による地下鉄サリン事件の被害者にインタビューしたものをまとめた本である。村上春樹が一人ひとりにアプローチして、心を配ってインタビューしたものだ。
痛々しい証言を提供してもらうのは、大変だったことだろう。だが、それだけでは事件を一方向からして見ていないことになるかもしれない。今度は、加害者側の視点から見た世界を訪ね、人々に示したい。但し、首謀者その他への取材はまずできない。そこで、オウム真理教にそのとき属していた人々に、問うてみた。取材できた人数は、『アンダーグラウンド』に比べると少なかったが、一人ひとりに相当長時間取材して、長く物語ってもらうこととなった。
そのため、生い立ちなども含めて語られることになり、どのようにしてその宗教にのめりこんでいったのか、分かりやすくなっている。とはいえ、それで彼らを裁こうとするような考えによるのではなく、ただただ人がどういう心を抱き、どこからあのような集団に入っていくのか、実例を示そうとするのである。結果的にオウム真理教がテロ集団となってしまったのだが、他にも宗教集団には同様の危険があるかもしれない。人は何に惹かれてその世界に行くのか。また、その世界がどうなると、あのような事件を必然的に起こしてしまうのか。
思えば、アメリカでは宗教集団による悲惨な事件がいくつもあった。日本には、幕府や政府に迫害された、というのは多々あるが、集団内で悲劇的な事件に至るということは、そう目立たない。しかしオウム真理教は、それを起こしてしまった。外部の者の思い込みで断定するのではなく、とにかく実態を知ることが必要だ。いったいあの事件の背後に、何があったのか。これを、辛抱強く探り明らかにしてくれた著者に、心から敬意を表したい。
世の中には嘘がまかり通っている。何か間違っている。だから、その間違いに自分が加わるようなことは、よくないと思う。純粋な、正しい世界というものがあるはずだ。その正しい世界があれば、自分はそこに生きることができる。――たとえばいまでも、いわゆる「引きこもり」と呼ばれる人の中には、このような考え方をもつ人がいるかもしれない。思えば私もまた、そのように考えていたことが確かにあった。多くの人が、子どものときにはそうではないだろうか。だが大人になるにつれ、世の中というものがそうではないと分かってきて、程よく嘘もついて適応してゆく術を覚えるようになるものだ。うまくやっていくのが、社会的に生きるということだし、協調性が大切だ、という顔をすることになるのである。
オウム真理教と何らかの形で出会ったとき、「これだ!」と思うことがあり得ることは、理解できると思う。今回のこのインタビューにおいても、そうした入り方をした人が多い。人と折り合いがつかずに、この純粋培養的な理想世界を説く集団に逃げる、というケースもあるが、自分の居場所を提供してもらえたとしたら、それはとても「きれい」なところに見えてしまうのだ。
それはマインドコントロールされているからだろう。そのように冷ややかに見る人がいるかもしれない。だが、村上春樹も言っているが、話してみると、彼らはなかなか「いいひと」だと思えて仕方がないらしい。
だから、本書に掲載された中でも、地下鉄サリン事件が起きて、オウム真理教が起こした、と報じられたときにも、信じられなかった人が殆どである。その後教団を脱退し、オウム真理教というものを批判する声を発している人もいるが、それでも事件と教団とは、すぐには結びついていなかったのである。
彼らは一介の信者である。道具のように扱われ、難儀に感じていた人もいる。しかしまた、逮捕されその後死刑となった幹部との接触も、それなりに経験している。麻原彰晃と話をした人も当然いるし、中には麻原彰晃に関係を迫られた経験をもつ女性もいた。宗教的体験をもった人もいれば、何かしらインチキ臭いところに気づき始めていた人もいる。それぞれなのである。ということは、思想統一が必ずしもなされていたとは言い難く、必ずしも「洗脳」という一言で説明してよいものではないように感じる。あの、統一協会がのぺっと誰もが同じような表情をしているのとは、少し違うように見えるのは、私だけだろうか。この二つの宗教団体の方向性は、かなり違うと思うのだが。
村上春樹は、河合隼雄と幾度か対談をしている。文学者と心理学者とは、心も開き合い、また互いに学ぶところも多かったようだ。本書も、二つの対談が掲載されている。もちろん、オウム真理教に関しての対談である。一人へのインタビューと同じくらいの量にあたる対談が、二つ。事件の2、3年後に交わされたもので、非常に深いところまで考察を向けている。これもまた、読み応えがあるものだ。宗教というものに対する、ひとの「心」という問題について、教えられることが多い。
また、「まえがき」と「あとがき」には、村上春樹自身の考えが丁寧に述べられている。「まえ」と「あと」に、それぞれよく考えられた内容が盛り込まれているので、これはやはり本を最初から順に読んだほうがよさそうである。その「まえがき」にある一部だけを引用する。インタビューをすることによって、「小説家が小説を書くという行為と、彼らが宗教を希求するという行為との間には、打ち消すことのできない共通点のようなものが存在していることを、ひしひしと感じないわけにはいかなかった」というのだ。
オウム真理教のことを、愚かなことだ、と、他人事のように眺めていたキリスト教会の関係者は、果たして本書を読んだことがあっただろうか。若い人々が、オウム真理教を「真理」だと信ずるに至ったその事実に対して、キリスト教が手を拱いていただけだとするなら、私は非情に悔しいし、自らを情けないとも思うのだ。何もできなかったのだ。教会が、自己保全に努め、昔ながらの正しさを杓子定規にアナウンスするばかりで、人生に対する若者の悩みに向き合っていなかったのだとしたら、そこに責任を感じなければならない、と強く思うのだ。これは、私自身への通告である。だがまた、教会への問いかけでもある。
何より、これほどオウム真理教サイドの考えや信仰についての情報の詰まった本は、めったにないものであろう。しかも、こうした問題にも深い関心を寄せ、考察を続けている作家が、丁寧に時間と手間をかけて、引き出してくれたのである。深い感謝を寄せないではおれない。そして、それを私たち信仰者が、活かすようでなければならない。そうではないだろうか。

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