『約束の陽は昇る ゲッティンゲン説教黙想』
H.J.イーヴァント
鈴木和男訳
日本基督教団出版局
\2200+
2001.6.
説教集ではない。説教黙想である。説教という形にまでできていなくても、聖書のある箇所について、いろいろと考えを巡らす。これを非常に重んじつつ、説教というものを真剣に考えているグループがあるが、私もまた、ここ10年以上、そういうことをしている。聖書箇所は、所定の読書計画に挙げられた箇所であるが、小さなノート1頁に、黙想するままに綴る。
そういう私の戯れ事と、神学者イーヴァントとを比較するのは畏れ多いのであるが、ただ本書のモチベーションのようなものは、少し分かるような気がする、と言いたいだけである。
イーヴァントには、優れた説教黙想集が複数あるのだそうだが、それを抜粋して編者がここに手軽に扱いやすい本を生み出した。扱いやすいというのは物理的な大きさや重さのことをいう。そこに綴られた、聖書との一種の格闘は、近寄れば切り傷を受けようほどの、鋭く力強い魂のはたらきがある。あるいは、祈りがある。
目次は、降誕節第一主日から降誕祭を経て、新年、顕現節などと、教会の暦に従って項目がつくられている。受難節を経て、復活節、昇天祭から聖霊降臨祭となると、この後は三位一体節を長く辿り、最初の降誕節へつながる、という具合になる。教会の暦を忠実に守っており、主日を網羅するほかに、降誕祭次日や聖金曜日や復活祭後月曜日、昇天日あるいは宗教改革記念日といった、教会に必要なカレンダーを押さえる形をとっている。
「訳者あとがき」には、イーヴァントについて紹介されている。特に、「ヒットラーに抗してたたかい、難民の救済活動に身を挺し」た、などと書かれてあると、襟を正さざるをえなくなる。
神学書であれば、必ず出典や参考文献が挙げられるだろう。自由な文章であっても、引用した聖書箇所を明記するのが基本である。本書も、最初掲げられた聖書箇所はもちろん章節を指定しているけれども、途中の叙述においては、殆ど示されていない。これは、聖書箇所から著者が自由に連想したことが流れてゆくので、読者に気を使いながら綴るという雰囲気にはなかなかなれない。もちろん、それでよいと思う。
聖句を基に、誰がこれを読むか聞くか、気にするようでもなく、自由に黙想を始め、結びまで突っ走る。私も多分にそうだ。誰にも邪魔されず、自分の思いのままに、与えられる光の中で文字を埋めてゆくのだ。
たとえば説教であれば、効果を考えもする。組み立ても綿密に考えるだろう。会衆に伝わるようにするために、なすべきことをなすだろう。だが、ここにあるのは、その説教の部品のようなものであると言えばよいではないかと思う。ひとつの説教に組み立ててゆくためには、ここで黙想されたことが生かされることはあるだろう。幾つかを組み合わせて、ひとつの説教を構成する素材となることも大いにありうる。実際、私も、日々の短い黙想が、関連テーマのメッセージの一部になるということはある。気持ちはよく分かる。
だが、本質はそこにはないと思う。ここの文章は、読者に気配りしたものではない。誰を気にしているかというと、神でしかない。自分に言い聞かせるということのほかは、完全にこれは神へ向けての叫びである。もう少し分かりやすい言葉を使うと、要するにこれは「祈り」なのである。
私もそうなのだ。私は自分が綴ったものを、デボーションと読んでいる。献身などともよく見なされる言葉であるが、宗教的には熱い信仰や祈りを意味する。それは自分の中から出た言葉ではあるが、自分の中から生まれた言葉ではない。神との対話から、神との交わりによって生まれた言葉であるのだ。それは正に「祈り」にほかならない。
イーヴァントの祈りは、礼拝の中で、いわば公的に口から零れた言葉がすべてではない。自身の中に渦巻くもの、一瞬で様々な展開を含み、発する言葉の方が追いつかないもの、そうしたものが胸の中にある。声に出す祈りの中にそれを全部出そうとすると、いくら時間があっても足らないであろう。だから、「書く」という行為によつて、それをほんの少しではあっても、文章として表わしてみるがいい。その祈りの言葉が、もしかするとまた誰かの役に立てばよい、という意味でこうした書物になったものを、いま私はここに見ていることになる。もちろんそれは、イーヴァントという、優れた神学者の、深い知識と信仰する魂によって紡ぎ出されたものであるからこそ、一般に披露してよいものとなるのである。ここに、その作品が呈された。
イーヴァントは、神の「約束」を見つめていた。約束に縋った。編者は、このタイトルの中に、イーヴァントの腰の据わった信仰を感じ取ったことだろう。読者も、それを受けたらよいとは思う。だが、もっとよいことは、読者一人ひとりが、それぞれに、神とのつながりの中で、神からのメッセージを受けることだ。神への祈りが神からの言葉と噛合うひとときを、黙想することだ。たとえ筆記しないのであっても。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド