本

『約束された場所で』

ホンとの本

『約束された場所で』
村上春樹
文春文庫
\524+
2001.7.

 小説ではない。タイトルは、マーク・ストランドの詩の一節から取っている。死の世界で目覚めた老人の言葉を使い、オウム真理教を信じた者が望んだものが、決してその望みのものとはならなかったことを見つめているように思われる。
 地下鉄サリン事件のほかにも、恐ろしい犯罪を平然と正義の名の下に行った、オウム真理教集団。村上は、得にその地下鉄サリン事件に関心を絞り、その関係者にインタビューを試みている。すでに『アンダーグラウンド』で、関係者へのインタビューを敢行し、著書として明らかにしていたのであるが、その後第二弾として、本書を出した。私はこの第二弾から先に読んでしまったことになる。こちらは関係者と言っても、教団内部の面々ばかりである。しかも、いわゆる上層部、つまり後に死刑囚となった人々ではなく、いわば末端のメンバーであり、特に犯罪を問われることなく市井に戻ったような人々である。
 つまり、そこには、いわゆる「洗脳」がどのように影響しており、社会生活に戻ったときにどのようにオウム真理教とそこにいた自分とを捉えているか、という点に関して問いかける著者の思いと、それに応えた人々との交錯がここに公開されている、という具合である。
 すると、やはり何かしら共通項のようなものが感じられる。もちろん、一人ひとり正確は違うし、環境も違う。どうにも孤独で、誰かと意見を交えるというようなことも少なく、かといってちゃらちゃらした世間の調子に合わせるという自分が許せないような、やはりある意味で真面目な若者がそこにいた。それ故に、オウムの世界が自分の求めるものに適っているように思えたのである。
 そこで、入るときにも彼らは殆ど躊躇しないで飛び込んでいる。そこに理想を見出したのだろうか。入れば入ったで、苦しい生活が待っていた。しかしそれも、修行であり解脱への道であるという目的があると、忍耐できる。というか、忍耐するしかない。また、自分の頭で考えて判断し、それに責任をもつというあり方から解放された、服従の気楽さというものを知ると、それが当然になっていく。頭のどこかでは、これはおかしいとたとえ考えたことがあったとしても、汚れた社会に戻るような気はさらさら起こらず、自分の居場所はここであるというあり方に、すっかり満足しているという状態になる。
 それは異常だ、と片付けるのは簡単であろう。だが、私は分かる。人間はそのようになっていくことが、あるのだ。真面目であること、真摯に真実を求める気持ちがあること、それらが行く末のひとつがこうした世界であり、実のところ多くの宗教やセミナーなど、何かしら、世間ではこういうけど実はね、というようなあり方をしているところでは、オウム真理教のメンタリティとベースは同じであるとまで言っても過言ではないうような気がしてならない。
 私もまた、そのような経験をしているからだ。
 自分のしていることが正義である、という自信を与えられたとしたら、人間は生きていくことができる。歩いていくことができる。だが、それが正義であるというそのものが、サリンを播くことが適切であると言えるのかどうか。そんなはずはないだろう、と外部の誰もが言うだろう。この末端の人々も、決して賛同はしない。
 でも本当にそうなのか。村上は最後に、満州国の建設と参与に、このオウム真理教事件を重ねる。ノモンハン事件に個人的に関心を懐き、また小説にもそれを取り入れている村上だからこそ、太平洋戦争に至る前の情況が決して過去の話ではないということを懸念しているように思われる。私なら、満州国のみならず、さらにこれは普遍的に言えることなのだろうという辺りまで考えが及ぶのだが、説得力をもつためには、この狭い指摘が相応しいだろうとも思う。
 巻末に、村上の親友あるいは師匠である、河合隼雄氏との対談が掲載されている。この二人の対談はほかにもあるが、ここはオウム真理教に関する話題だけであり、本書にあって実に力を与えていると思われる。キリスト教という枠の中にいる私のような者にも、実に強烈に響いてくるし、心してかからなければならない点がたくさん指摘されている。教会関係者は、この対談だけでもいいから、心得ておかなければならないと考える。
 河合氏の言葉を断片的に少し拾うが、「だいたい善意の人というのが無茶苦茶人を殺したりするんです。……正義のための殺人ちゅうのはなんといっても大量ですよ。……「良いこと」にとりつかれた人ですからねえ。」「本物の組織というのは、悪を自分の中に抱えていないと駄目なんです。……そうしないと組織安泰のために、外に大きな悪を作るようになってしまいますからね。」「自分の悪というものを自分の責任においてどんだけ生きているかという自覚が必要なんです。」「これから一人ひとりをもっと強くしなくてはいけないなと思いますね。そのためには教育をちゃんとしなくてはならない。今の教育はもうぜんぜん駄目です。一人ひとりをもっと強くする教育を考えないかんです。」「日本人にはまだ自由というのは理解しにくいでしょう。……自由というのは恐ろしいですよ。」
 話の流れがあるから、ここだけ切り取ると誤解を招くかもしれないが、一つひとつが、心にずしりとのしかかってくる。心理学と教育を、さらには政治をも見据えて生きてきた人の言葉である。味わい、また教会たるものが考えていきたいことが多々あると考えたい。
 本書が、オウム真理教から間もない時期に生まれたうえ、今後もこうした事件が起こる可能性が高いことを指摘しているが、幸い同じ規模のものは起こってはしない。しかし、オウム真理教と同じように政治的野望をもち、またよりスマートに金を集め、あまりに夢想的な世界で人の心を釣っている宗教組織はいまなお存在する。自分たちの理解する法的理解で押し通そうとしている点も、オウム真理教とは無縁ではない。彼らは賢さもあるから、暴力に利がないことはオウム真理教を他山の石としているように見受けられるが、これもどうなるか今後は分からない。オウム真理教から四半世紀、確かにもっとこの悲しい出来事から、私たちは精一杯学ばなければならないことが遺されていると弁えたいと思う。




Takapan
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