『書く人は、ここで躓く!』
宮原昭夫
河出書房新社
\1300+
2001.4.
作家の村田沙耶香さんが、小説を書く上でよい本があるとして、薦めていたために、探してみた。図書館にあったので、早速借りて読んだ。
挿絵の一つもなく、すべてが文字。そのほうが、小説を書く人にとっては、馴染むのかもしれない。サブタイトルには「作家が明かす小説作法」と記されており、これが本書の表向きのタイトルとして通用するものであろうと思われる。文学賞選考委員を務めるなどの経験から、「ここで躓く」というポイントにたくさん触れているのだろうと思われる。
本の魅力を紹介することと、その本を買わないで済むようにさせることとが、同時に成り立つような場合には、十分警戒しなければならないが、少しだけ、本書の指導をお知らせすることは許されるかもしれない、と勝手に考えてみる。
まず「ファーストシーンは後に書け」というところから始まる。なるほど、筆に任せて流れに任せていく、という手法もあるだろう。村上春樹はしばしばそのような言い方を自分のやり方だと公言する。天才的な人はそれでよいかもしれない。だが、本書は、文学作品として読者が受け取るための、入口をどう扱うかは、書く側の最初の気持ちと等しくはない、と指摘する。こうしたアドバイスは、私たちも真似してみることができるかもしれない。
また「十作って一書け」との提言は味わい深い。これは、十分の九を、書いた後に削れ、という意味ではない。一書いた背後に、人物の歩んできた人生や環境、時代背景など、たくさんの設定のようなものが、書き手によりイメージされ、決められているべきだ、というのである。自分の人生を作文に書くならば、まさに、言いたいことが無数にある中で、絞った言葉が現れてくることになるだろう。ちょっとした言葉遣いが、自分の中の、多くの体験を踏まえてこそ用いられている、ということになるだろう。フィクションでも、ただ思いつきで話を進ませると、いったいその人物はどういう価値観をもち、どういう経験をしたからこそ、そういう反応を示すのか、という点で、読者に齟齬を感じさせてしまうだろう、というのである。つまり、非常に不自然な人物像を露呈してしまうことになるのだ。
それは、細部で破綻を起こし、それが物語不信を呼ぶようになるだろう。本書では、文学賞に応募された作品を実例にとり、非常によい設定であり描写の力もあるのに、描かれた性格の人物が、その場面でそんなことをするのは解せない、という感覚を読者が懐いてしまう例をも挙げ、注意すべき点として、私たちに教えてくれるのである。
だからこそ、「ここで躓く」という題である。その「ここ」が、文学賞選考の場面で、多々現れてくるわけである。
かつて「文体」ということが重視された時代があった。一文を切り取っても、それは誰それの文体だ、と言われるようなものでなければならない、という極論まで現れた。だが、著者は、今の時代はそういうことではないばかりか、そもそも「文体」というものがあるのかどうかさえ、気に留められていないようだ、と感想を漏らす。それが、純文学と読み物小説との境目がはっきりしなくなった時期と重なるということに、何かしら意義を感じているように書かれている。確かに、いまや芥川賞と直木賞とは、どちらがどちら、というように言われるようになった。こんな、文学を広く見る眼差しも、時折与えてくれるのはありがたい。ただのテクニックのハウツー本ではないのである。
文学についての論は、何々はこうだ、と断言する場合が時折見られる。だが、本書は、断定はしない。きわめて自由であり、こうでなければならない風な主張を押しつけることはない。まさに、躓く箇所も人それぞれであり、躓き方にも個性がある。著者自身の経験に基づく故のアドバイスは当然あろうかと思うが、ただ、自分がプロットしたままに最後まで流していく、ということには賛成していないようである。作家自身が、生み出そうとする作品と出会い、互いに感化を受け、何かしらの変化をしていくというところを愉しむべきであるのだろう。物語が生き物であるかのように。
ここには、理論的なもの、物語論が示されているわけではない。だが、時折剃刀のように、鋭い声が響く。「一つの小説に、興味深い設定を二つ混ぜ合わせると、読者に対する効果は、二倍にならずに二分の一二成る」という法則があるのだ、という。独自に「効果反比例の法則」と名づけているらしい。ここでは短編か中編くらいが想定されているので、そこに一筋のものがあればよい、あるいはそうでないと魅力がなくなる、ということのようだ。
もうこれは、プロ寸前のような方々のための忠告であるのだろうが、何らかの文章を記す者には、はっとさせられる指摘が随所にある。地味ではあるが、確かに優れた指南書であると感じた。