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『世界のタブー』

ホンとの本

『世界のタブー』
阿門禮
集英社新書0902B
\760+
2017.10.

 これは面白かった。最初から最後まで、息が抜けない「タブー」の連続であった。見方によっては、とにかく世界あちこち無秩序にそれらのタブーが並べられている、というだけのものである。もちろん、章立てがなされ、項目が挙げられているので、類似のことがまとめられており、読み物としても自然である。ただ、ひとつ苦言を申し上げると、索引があれば、読んだ後でも利用しやすかった。あまりにたくさんのことがこの本に詰まっているので、後から知りたい、どこかにあった、と思い出したときに、どこにあるか調べにくいのである。目次はかなり細かいが、必ずしも探しやすいものではない。新書という性質上、それは難しいものということは分かっているが、あと40円価格が上がっても構わないから、索引のために数頁欲しかったという思いである。
 それというのも、読んだというだけで終わりにしたくないものだからである。今度どこそこに国に行く、そういえばその国のタブーがいろいろ書いてあったな、どこにあったっけ。しかし本書の目次からすると、場面別の叙述であるから、その国としての知識がまとまっているわけではない。そんなときに、国別にめくれるような索引があればと思った。もちろん、項目としても目次からでは察しにくいものも多いから、索引が欲しいと思ったのである。
 それはそうとして、よくぞこれだけ世界各地のタブーを目の前に出してくれたものと思う。もちろん、全体的に欧米とアジアにシフトしており、アフリカや中南米などについての記述が多くはならないが、歴史上、あるいは何かしら触れやすい文化にあっては、十分関心をもって読めるものとなっている。
 私にとっては、やはり聖書文化が詳しく記されていることはうれしかった。というより、聖書のためにかなり頁が割かれていることを知ったからこそ、手に取ったのでもあった。それは、律法の中からであり、食べ物についても触れられているが、やはり性に関することが目立つものであった。旧約聖書の律法には、くどくどと性についての禁止事項が書かれている。まさかそんなというようなこともあるし、ともすれば忌まわしいものとしてそう深く追究はしないでクリスチャンも読んでいるものと思われるが、よくよく考えてみれば、どうしてそのような規定があるのか、気になるところである。つまりは、当時そういうことが行われていたからこそ、規定されているのは当然のことである。それを、聖書という枠内だけで論じるのではなく、広く文化史の中で捉え、周辺諸国を初め、他の時代での他の地域の習慣などをも踏まえながら見せてくれると、なるほどと思えることが沢山あった。聖書についての著者の理解も深く、安心して聞いていける。
 そして、そのユダヤ人をその後の歴史はどのように扱ったか。ユダヤ人に限らず、文明をもっていた民族を滅ぼすような真似をしたのは誰か。いくつかの場合、それはキリスト者であった。キリスト教文化、キリスト教諸国が、それをした。十字軍のころ、世界進出の時代、目を覆いたくなるほどのありさまであり、私たち現代のクリスチャンにとっても、それは無関係ではない。日本の戦争責任を私たち現代人も(一部はそうでもないかもしれないが)感じることが当然あるのだが、同様にクリスチャンも、過去してきたクリスチャンの歴史に対して責任を負う姿勢が必要なのではないか、と改めて強く思わされる。
 巻末に、民族などを蔑視する呼称がアイウエオ順に並べられている。まさかこんな言葉が、と思えるようなものもあるが、どこかで聞いたことのあるものがたくさんあるし、その説明は納得できる。ちょっとした表現のように思えても、侮蔑の言葉はいくらでもあるものだ。これはすぐれた一覧であった。だからまた、同様に索引も載せて欲しかったと思うのだ。あるいは、いっそ「辞典」としてこの内容をまとめるという方策もあったことだろう。
 その巻末附録の直前に、「おわりに」と題して2頁の文章が載せられているが、ここで初めて、そもそも「タブー」とはどいういうことなのか、と解説がなされている。いっそこれは巻頭で定義されてしかるべき内容ではないかと普通なら思うが、著者はこの「タブー」という元来の意義から、現代、まさにいま2017年の世界情勢の中で、ぶつけたい主張、読者に考えてもらいたい事柄をもっていたのであって、そのために、過去を含む世界中のタブーをありったけ並べて告げてきた最後になって、それを明らかにするというレトリックをとったのだ、と私は理解している。だから、どうぞ「あとがき」は、全巻読んだ最後に、見て戴きたい。そうして、膝を打ってみるというのが、本書の正しい読み方なのだと思う。




Takapan
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