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『世界哲学史1――古代1 知恵から愛知へ』

ホンとの本

『世界哲学史1――古代1 知恵から愛知へ』
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留責任編集
ちくま新書1460
\940+
2020.1.

 ちくま書房が、新書という形で大きな企画を打ち出した。通例この手のものは、体裁の立派な書物で、一冊数千円もする美装をモットーとするものであろうが、なんと新書である。千円程度にはなるが、300頁あることを考えると、ずいぶんと安く気軽に手にすることができることは間違いない。全部で8巻を掲げ、毎月発行していくという。
 この企画に、私は乗ることにした。まずは第1巻。二つに分かれた古代の前半である。
 このシリーズのタイトルは、「西洋哲学史」ではない。「世界哲学史」である。尤もな題だと言えよう。どうしても、日本人が受け容れる「哲学」となると、西洋哲学であったことは否めない。また、そもそも「哲学」と呼ぶ対象が、西洋の思考形式である、という前提もあったものと考えられる。本書もそのあたりの事情からきちんと説明する。副題の「知恵から愛知へ」がそれを指しており、哲学と私たちが呼ぶものは、知を愛する営みとして理解されていること、そこから入らなければならなかった訳である。ただ、やはりそこよりも、「世界」という看板が問題である。そこで本シリーズは、たとえばこの古代の前半においても、中国とインドについての章がある。従来この流れには入りづらかったのだが、人類の知的遺産としてそれを排除してよい理由はない。問題はそれを「哲学」と呼ぶのがよいのか、はたまた西洋のソクラテスあたりに始まる「問い」の流れを汲むものでなければ「哲学」と呼ぶことができないのか、その辺りになってくる。
 だが、異なる伝統や思想を一つひとつ丁寧に見ていくことを基本とする、そういう態度を決めて、企画が進んでいく。この態度を私たちは見守り、また追従していこうと思う。世界という全体の文脈の中で人類の知恵を問わなければならない時代に、なっているのだ。他の思想を知らずして、自分が一番だと独り善がりを決めてかかってよい状況ではなくなったのだ。日本にも「哲学」の名を用いて扱うことになろう。だがその「哲学」という意味が、ソクラテスのものに従うのかどうか、それはまた今後の議論の仕方により楽しみにさせて戴くほかはない。
 このように最初だから本シリーズの企画そのものについて触れなければならなかったため、この第1巻の内容を追っていくのは難しくなった。扱う時代は紀元前2世紀までであり、中東と呼ばれる地域からギリシアに目がいくが、上に挙げたように中国とインドも視野に入れる。最後にある、アレクサンドロス大王の帝国により生じた、インドとギリシアとの接点などは、考えてみれば当たり前のことなのであるが、そんなにこれまで強調されたことのなかった、新鮮な気持ちで楽しく読ませて戴いた。
 とにかく、ちょっとした視点の違いで、これまで見ていたものについても、別の景色が見えてくるものである。世界哲学史のベースには、すでに1900年から開かれている「世界哲学会」なるものの2018年の大会にて、日本の哲学会が打ち出した「世界哲学」という理念がある。これを形にした本企画は、哲学を思う人々の手に、こんなにも手軽に読まれる形で出してもらったことで、きっと話題になることだろう。いや、話題にしなければならない。グローバルという言葉が、政治や経済だけのものであってよいはずがない。すべての現象について思索して力を示さなければならない。これが善だと突き進むものが本当に善であるかどうかは分からない。そこに潜む罠や危険性を見抜くことが切実であることを、特にこの百年の歴史で私たちは痛感しているはずである。哲学は無用なのではない。誰も気づかないその問題に気づくこと、指摘すること、そして危険を回避していく原動力となることができるはずである。そのためにも、根底的な意味でグローバルな思想を強固にするために、本書ができるだけ一般の人々にも意識されて、考えることへと誘ってもらいたいと期待する者である。
 なお、これは8巻まで毎月発行されていくが、その一冊一冊を今後はこの場で評しないことにする。結局類似のことを綴るようになってしまいかねないからである。但し、最終巻まで読んだときに、この「世界哲学史」全体を総括する形で、ご紹介することになるかとは思う。しばらくお待ち願いたい。




Takapan
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