本

『人間にとって科学とは何か』

ホンとの本

『人間にとって科学とは何か』
村上陽一郎
新潮選書
\1155
2010.6.

 このように「〜とは何か」と正面切って問う本が、めっきり少なくなった。なぜAがBでないのか、というタイプがやたらに多い本のタイトルだ。私は個人的にこれは好まない。理由の説明というのは、いくらでもごまかせる。つまり、どのような答えを出しても正解となりうるのだ。しかし、何か、と訊かれたら、なかなかごまかしが利かない。理由は曖昧だが、ずばり本質は決して曖昧ではない。哲学的ともいえるこの問い方を、このごろは誰もがやりたがらない。どうせまた文句をつけられると分かっているからだ。また、著者が一般的にそのように本質を問おうとする姿勢をそもそも有していないからでもある。
 逆に言えば、この本のタイトルは、古風に聞こえる。いまどき、そんなことマジで考える人なんかいないよ、と。だが、流行がどうであれ、経済事情がどうであれ、真理を問う真摯な姿勢は簡単に価値を変えるはずがない。大いに、そう問うてほしいのである。
 前置きが長くなりすぎた。科学史の権威、村上陽一郎氏が、最後に明かしているように、口述筆記として論じたものがここに本となった。最後にそれを知るまで、私はそうだとは思ってもいなかった。たしかに丁寧調で記されているが、その論理的な展開や内容の多様さと深さにおいて、じっくり練られた原稿であろうと信じ切っていた。だが、あまりにも多忙な中で、著者は口述という手段でなければ、この本を上梓できなかったのだという。これもまた気の毒だ。だがそれにしても、ここにある教養の高さは、さすがである。
 タイトルにある「人間にとって」はいろいろ解釈されうる言葉であろうが、著者の意図は明らかである。今回は、「社会のための科学」という視点で問いかけている。科学が社会を離れてはありえないという、今は常識のように捉えられることも、それほど以前から当然視されていたわけではなかった。科学は科学であり、社会と独立に発展もするし、発見もあるのだ、と。しかし、社会の要請により科学がむしろ探究されるということが、現代でむしろあたりまえのものとなっている。金にならない研究よりは、金になる研究のほうがもちろん推奨される。社会的な要請が、科学研究費を決める。そればかりではない。社会の要求によって、科学が人類滅亡の道具へと変化しうる状況にもあるのだ。
 かつて、そういう部分は「技術」として扱われることが多かった。ハイデガーあたりにしてもそうである。科学そのものが、西洋においては「学」を表す語と基本的に同一であるために、学そのものが人間の欲望めいたものに操られるという構図を決して許さなかったのではないかと私は思う。そこで、社会に影響を受ける部分は、科学ではなく、技術なのだ、と論をずらした。しかし、実のところ、科学そのものが社会の中に居場所をもつという事実を、ごまかせるはずはなかった。科学の立場は、確かにイデアの世界ではなくて、現実のこの世の中にあったのである。
 ところが、安易にこのことを論ずると、「社会」という言葉もまた曖昧であるせいか、思い込みや立場の利益によって、誤用されることにもなりかねない。著者は、そうなっていると指摘する。「事業仕分け」への抵抗であるのかもしれない。いや、多分にそうだ。せいぜい次の選挙があるまでの範囲での「社会」という認識によって、いとも簡単に科学の立場が政治的に決められるというのは、どうにもおかしい。科学は知的な領域で価値づけられてもよい、知的な財産ではないか。著者は、そうしたことを思う熱意と共に、冷静な語り口調でこの本を述べ上げた。それは、難解な用語により衒学的趣味を出してしまうこととは異なり、平易な言葉で、読者に考えてもらおうという姿勢の現れでもある。
 その意味で、読んでいて楽しい。楽しいから、私のような遅読者であっても、すぐに読み終えることができた。タイトルや内容とは無関係に、読みやすい本である。そして、読んで、これから何かと思索するときの、ある種のベースにしてほしいような本であると言えるだろう。




Takapan
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