本

『ワイルドサイドをほっつき歩け』

ホンとの本

『ワイルドサイドをほっつき歩け』
ブレイディみかこ
筑摩書房
\1350+
2020.6.

 ブレイディみかこ氏は、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でブレイクしたが、元来、ロンドン在住の保育士として、ひじょうに社会的な視点を大切にするところから文章を綴る人であった。新刊では、労働者階級に光を当て、出会った様々な人の人生を描く。そして、出会った自分の心の動きを冷静に見て、また社会とは何か、その現象と背後にあるものを鋭く見抜く。
 2018年から2019年を記した今回の内容は、EU離脱が大きなウェイトを占めている。しかしまた、医療制度が日本と異なる点を丁寧に伝えつつ、その制度を格差社会がどうしてとるようになったのか、また現実に貧しい人々がどうやって凌いでいるのか、生き生きと描いている。こうしたことは、ニュース報道や特集などでも、そう簡単に出て来ない。NHKなどはかなり凝った企画をするし、実例を挙げてレポートもするのだが、それでも選ばれた特定の人物を取材するのがせいぜいだ。しかし本書の場合は、日常の生活がある。くっついたり分かれたり、死別もしたり裏切られたり、その中で逞しく、というか切実に生きている階級的に安心した生活が保証されていない人々の、会話から息づかいまでが伝えられてくるのである。
 本書のサブタイトルは「ハマータウンのおっさんたち」である。労働者階級の「おっさんたち」が社会的に非難される対象となりやすいのだそうである。「EUが大嫌いな右翼っぽい愛国者たち」として、良識派からは程遠い存在であるらしい。しかし、おっさんたちをサタンと呼ぶほど彼らは「大それた存在」ではないと著者はいう。「彼らは一介の人間であり、わたしたちと同じヒューマン・ビーイングだ」。著者は、配偶者と共にそのあたりの世代にいる。そしてそうした人々との交わりがある。イギリスが対外的にもつ問題なども、この生活基盤の中で、彼らの言動を通して、見ることができる。まさに現在のイギリスをそこに見ると共に、「英国の近代史」を知ることになるのだという。
 この点、巻末近くに、英国の「世代」の解説と、「階級」の現状とが堅い口調で説明される。ここは心情というよりは事実にほかならない。ここはかなり有力な資料となりうると言ってよいだろうと思う。
 放っておいたが、「ハマータウン」とは何であろうか。文化社会学社ポール・ウィリスによる有名な本『ハマータウンの野郎ども』は、出版された1977年以来、教育などに関わる人に多大な影響を与えてきたのだという。そういう地域のそういう人々がそういうおっさんになるのだ、という告発のようなものだったが、著者の配偶者がそこに描かれているくらいの年代を生きてきたことになる。そこでいわばこの有名な本に描かれた少年たちがいま現実におっさんになっている以上、それを検証するということが求められていると言えるのかもしれない。
 イギリスの現在について、社会的な視野から知りたいと思うなら、これはまたとない素材となるだろう。小さな喜びや悲しみも含めて、そこにいるのは「ひと」なのだということをひしひしと感じる。制度や組織をいくら論じても、そうした経済学や社会学は、生の「ひと」とは無関係な、巨大な現象であるに過ぎない。しかし、本書のように生活を共にしている人たちの声や態度、その悩みや怒りなどを知ることで、「ひと」なんだ、という当たり前のことに気づくことができるかもしれない。
 エッセイとして書かれてあるものに違いないのだが、そこには「ひと」の姿がある。著者などは、酒が好きであるために、やはり最後にはイギリスの酒事情を書かないと、とかなりの分量の、酒色に染まったロンドンが紹介される。かつてのパブは潰れつつあり、酒の消費量が減っているのも事実だという。しかしスパークリングワインは伸びており、但し若い世代が酒から遠ざかっているなど、日本も無関係とは言えないような有様が書かれている。いや、この酒論にこそ、ハマータウンのおっさんたちの真実が浮かび上がってくる、とまで著者は言う。「しらふで生きる」ように動き始めた人もいるというが、これは聖書の書簡の中で、全うな生き方をするよう勧めるときに使う表現である。乱暴でがさつなように見える人々も多々描かれるエッセイであるが、聖書を意識しているような表現や主張も時折見られる。文章ももちろんと言うべきだが、実に巧い。ひとをよく見ているし、問題の本質をずばり見通している。まだまだイギリスを私たちに知らせてくれそうであるし、それを通して、私たちも自分自身を知ることへと少し近づくのではないか、と期待したい。




Takapan
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