本

『どうしてわたしはあの子じゃないの』

ホンとの本

『どうしてわたしはあの子じゃないの』
寺地はるな
双葉社
\1500+
2020.11.

 九州を舞台に、ほどよく方言を出してくれて、若い心の迷いやすれちがい、しかし自分に正直な気持ちで生きようとする思いや、そのように生きることの大切さに気づいていく過程、そんなふうに言えばよいだろうか。毎度不思議に手に取り読みたくなってしまう、媚薬のような本を、寺地はるな氏はよくぞ毎度提供してくれるものだだ。
 そのスタイルは、章毎に視点を変えるという手法を確立した。もちろん、それは多くの作家がすでにしていることではある。しかし、群像というほどではないだろうが、中心的人物それぞれの視点から物語を進行していくということを、こうも楽しくさわやかに、そして息苦しく描くことができるとなると、私の感覚にぴたっとはまったとでも言えばよいのだろうか。
 だいたいこのタイトルそのものが、心をくすぐる。私たちが、きっと心の奥底で考えているもの。それでいて、決して表に出さないもの。そもそも奥にあること自体に気づいていないようなもの。そして、いざ指摘されると、ああそれは真実だと溜息をついて、心をすべて見透かされた敗北感すら抱くもの。「どうしてわたしはあの子じゃないの」という言葉が、魔法をかける。
 佐賀の田舎での同級生3人を中心として、その心の動きが事件とともに示される。小説を、売れないながらも書いている天は、もしかすると作者の分身だろうか。冒頭からセンセーショナルなシーンが登場するが、それが三十を数える歳のいまの闇だとすると、中学時代の友情のようなところに、その救いが求められざるをえなくなる。
 その天に恋心を抱く藤生と、藤生を思うミナがいて、それぞれ家族や自分自身の中に問題を抱えている。3人はタイムカプセル並の、未来への手紙というものを媒介として、再び顔を合わせ、時を超え、過去の傷を意識する。そうやって、あの子ではない理由を探していたそれぞれが、とくに天が、自分を見出していく明るい希望を、読者は共に感じることだろう。
 暗い思い、若いときの思い出したくもない歴史も、自分の中に眠らせているだけでは、いつまでも暗いかもしれない。しかし藤生が自分の過ちを打ち明ける場面は、少しどきどきする。あんなふうにその黒いものを表に出すことができるというのは、なんとありがたいことなのだろう。村の祭りを背景に、一癖も二癖もある人々が、それぞれ生き生きと動き始める。
 私としてはその神社的神さまへの思想は肯けないけれども、すがるような神への姿勢ではなく、心の中の暗いものの向こうにある光を見出していくという動きは、清々しい。気になるのは、女子中学生の連続殺人事件くらいのものだ。それへのブレーキが、中学生たちを暴走させないで済んでいるが、しかし世間が決めたようなレールではない人生をそれぞれが自然に辿るあたりは、がんばれと応援したくなるほどである。
 章は、おもに3人の視点で、2003年の中学生のときと、2019年の今とを往来する。視点だけでなく、時間をも超えて立体的な物語を読者にもたらしている。章にはその視点と年代がちゃんと書いてあるから、そこを見落としさえしなければ、決して道に迷いはしない。中学生という、心の成長の大切な時から、大人の入口に来たような世代までを、いとしく見つめるような作者の眼差しをここに感じる。非難するつもりはない。責めるつもりもない。ただただ、気づかなかった若いころのそれぞれを許し、認め、いとしんでいる。傷ついてこそ、それの大切さを切実に覚えるものなのかもしれない。
 誰にも、そんな過去が、あるのではないか。あれば、この寺地はるなワールドにも、スッと入れることだろう。ちょっと胸がキュンとなる、と言うと、誤った期待を与えることになるかもしれないが、その等身大の人物像は、決して他人事だとは思わせないものをもっている。心の洗濯に、もってこいだ。




Takapan
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