『あなたはどこにいるのか』
関田寛雄
一麦出版社
\2200+
2015.3.
青山学院大学第二部関田アドヴァイザーグループの企画で出版されたという。若き頃、留学から戻った著者は、第二部文学部の宗教主任を担当することとなった。第二部。いわゆる夜間学部である。経済的事情などのために苦学する人々である。そこには第一部の学生とは違うものが確かにあった。著者もまた、戦後の貧しい牧師家庭で育った経験をもつ。そこに何かしら重なるもの、通じるものがあったことからも、読書会という形での学びがただの知識ではなく、生きる力となっていくことを確認するのだった。
学生運動で乱れた大学の後、宗教主任を解任されたことから、より第二部に近づくこととなる。人間味溢れたこの交流の中で、育まれたものが、様々な形で文書となり、それらをひとつに集めたものが本書であるという。それも、1968年に発刊されたものが、2015年に再刊されたそうだから、世代の替わった若い人たちにも、ぜひ味わってほしいという願いがこめられているように思われるし、それだけの価値がある、心のこもった内容であるとお知らせしたい。
学内の講演から短い説教、いろいろな文書が集められており、こぢんまりした文章集のようだが、一つひとつはなかなか優しさに満ち、それでいて力があるように見受けられる。学生へのメッセージでもあるが、生い立ちの紹介もあり、共感を得るものとなっている。
そして、あなた自身の問題ですよ、という福音の最も大切な視点を随所に置いている。これがいい。物知りが必要なのではない。口先の立派な考えが求められるのではない。あなただったらどうか、あなたはどうするのか、それを問うのでなければ、聖書を語る意味がないと私は確信している。本書もそういう愛で満ちている。その人に神が語りかけるのでなければ、神により何かが変えられなければ、いくら叫んでも、やかましい銅鑼に過ぎないのである。
切ない報告もある。命を自ら絶った若者たち。プライバシーへの配慮はあるのだろうと思うが、実に生々しい。聖書を読み、また信じているはずの若者たちが、ふとしたことで命を落とす。心の病という問題もあるが、つれない周囲の人の仕打ちにより、ある意味で殺されたのだという指摘は、ぐさりとくる。場合によっては、その冷たくした本人を責めていることにもなりかねないが、私は、読者一人ひとりに投げかけられているものとして理解したい。あなたも簡単に人を殺せるのだし、実は殺してきたのではないのか、という迫りを覚えるということである。元々私がそのような意識でいるからかもしれないが、一つひとつが短い文章の中で、このようなショッキングなものも押し寄せてくるから、本書は油断ならない。そしてそのもまた、愛のひとつの形なのだと見なさざるをえない。
若い人々へのメッセージである。聖書の一つひとつの言葉を説く配慮もある。しかも、経験の少ない若者たちに向けてであると同時に、十分若い人たちの考えや生き方にも尊敬を払いながらの言葉が綴られていることに、安心する。いや、これは若向けなのだなどという構え方が、すでに年配の者の傲慢である。これは万人に向けての、間違いなく上からのメッセージなのだ。
こぢんまりした文章集のようだと申し上げた。一つひとつの文章は実に短いものばかりだ。だがそこには強みがある。長い文章や説教は、要するに一つのことだけを言いたいために様々な準備や装飾をするということになり、文章の分量の割には要点はわずかであるとも言える。しかしこれだけ短いものが集められたということは、みじん切りの一つひとつが大切な輝きをもっているわけで、1冊の中に宝物が無数にあるということにもなる。
だからこれは、お買い得である。たくさんの恵みを与えられる。最後にある「付録」は少し長いのもあるが、しびれるほど嬉しいメッセージに満ちている。
私が本書に惹かれたのは、まだ内容を知らないときである。「あなたはどこにいるのか」、それはもちろん創世記3章にある、神から人への最初の呼びかけである。私はこの言葉に救われた。神の前に連れ出され、一旦は殺されたのだが、復活させられた。この言葉は私にとり命の言葉であった。このタイトルがあるという本には、何らかの渇望があって然るべきではないだろうか。ただ、入手が難しかったのと、価格の問題で、しばらく見送っていたのだ。それが、購入にゴーサインを出して取り寄せたのだが、期待に違わず心が癒やされ、満たされた。青年のためのような触れ込みがあるが、とんでもない、どうぞ誰でもここから教えられ、慰めを受けて戴きたい。そして神の問いかけを受けて、応えて戴きたい。それはあなたの、間違いなく、命となるはずだ。