『宗教とは何か』
テリー・イーグルトン
大橋洋一・小林久美子訳
青土社
\2400+
2010.5.
岩波文庫の『文学とは何か』から、こちらに流れてきた。イギリスの批評家の著であるが、アメリカに招かれて連続講演をしたときの記録だという。
思想的な背景を縦横に構えた、文学論から、今度は宗教論である。原題は「理性、信仰、革命――神論争についての省察」というものだそうだが、訳者は、より一般的な日本語で提示することにしたという。さらに内容を踏まえて紹介するならば、「キリスト教信仰と科学、政治」のような見出しにするとよいだろうか。
最後にまるで一つの章であるかのように書かれている「訳者あとがき」に、本書の概要が見事にまとめられている。ある意味で、これだけ読めば、本書の内容は把握できるし、歪みなく理解することができるであろう。しかし、それだとイーグルトンの、ウィットのある喩えや表現を楽しむことができないし、面白みのない議論だと勘違いしてしまうであろう。文学論でもそうであったが、とにかく言葉の端々が面白い。一つひとつのことを言うのに、何もそれを持ち出さなくてもいいだろうというような、妙な事例を持ち出すものだから、ちょっとした漫談を楽しんでいるような気持ちで読んでいくことができる。だから、やはり本文を味わわなければもったいない。
講演は、2008年。宗教はもう信じられないのか、というような神話を信仰している日本人の多くの人からすれば、信じられないかもしれないが、宗教は近年復興や興隆が著しい。イーグルトンはキリスト教の伝統の社会に生きてきた。もともとカトリック信仰をもち、しかもそれを改革すべく思索を続け、マルクス主義批評家としても活躍した。そのため、マルクス主義についての考えを擁してはいるが、ここで特別にそれを宣伝するようなことをするわけではない。それぞれの立場や主義はあってよい。キリスト教を、一種の革命によりよくしていこうという考えは、現代にあっても好ましいものの一つだと言えるであろう。
ただ、キリスト教の置かれた情況について冷静に見つめるということが、批評家としてのイーグルトンの特質でもある。現代にあって、宗教はどういう位置づけを与えられるべきなのであろうか。
誤った形で宗教を攻撃されるというのは、不愉快である以上に、適切ではない。ここでドーキンス、ヒッチンスという二人の論敵を具体的に挙げ、合理主義の立場から、キリスト教は科学から見て正しくない、ということを一方的に主張する彼らの不合理を突く。彼らこそ、一種の「信仰」により叫んでいるのではないのか。イーグルトンは、確かに彼らの言うことに尤もな部分があることは認めるが、それはむしろサタンのような存在のことを悪しく非難しているようなものだと考える。
その非難は、政治的な側面、つまり現実社会の変革のために行動する背景あるいは根拠としての思想という意味における宗教の役割へと、議論を功利的に展開していくことになる。そのとき、キリスト教がどうもイデオロギーとして掲げられるような時があるが、それと元来の聖書に基づくキリスト教とはまた別のものとして扱うべきであることを指摘する。西洋では、それほどに、キリスト教と政治活動とが一体となって動くことがしばしばあるのであって、だから日本人からすると、恰もキリスト教が悪をもたらしたかのように勘違いして評する場合もあるのだが、リベラリズムにしても、信仰が理性を完全に欠いているかのように見なすことはできないのだとするのである。
そして、理性的な知に基づく主張の方に目を移しても、そこに何らかの信仰があるのではないだろうか、という極めて原理的な問いかけをも持ち出す。信仰という言葉に抵抗があれば、信頼と言ってもよいかもしれないが、理性と信仰とを完全に別のものと定めてしまうことをよしとすること自体が、ある信仰の出来事なのだと指摘する。この辺りも、イーグルトンの言い回しがいろいろ楽しいものである。
最後に文化と文明との関係を論じ、キリスト教が歴史的に犯してきた過ちについても適切に批判を重ね、しかしやはり宗教は、人類の将来を考える上で欠かせないものであることを強調する。宗教は擁護されるべきなのである。少なくとも、宗教なしで、科学だけでやっていくというのも、人類の未来を悪くするであろう。科学は、人類を滅ぼすようなことができるのであり、現にそれに及びはしなかったが本質的に同じことを、これまでやってきたのである。科学が人類を管理するということは、認めるわけにはゆかない、とするのである。
訳者自身、信仰をもたないことを「あとがき」では告白している。しかし、訳語や言い回しからしても、特に困難があったようには思えない。いわゆる聖書の解釈などの本ではなく、政治や科学との関係における宗教の必要性が語られているわけであるから、これは安易にキリスト教を批判する日本の一部の知識人たちにとっては、味わう価値のある講演記録であると言ってよいであろう。批評という分野にも関わるため、文学批評に携わる方々にも、ひとつ押さえておきたいテーマではないかとも思われる。言い方の妙を楽しむために読む人がいても、私は構わない。