本

『宗教とはなにか』

ホンとの本

『宗教とはなにか』
中村雄二郎
岩波現代文庫
\1000+
2003.8.

 タイトルの下に「とくに日本人にとって」と書いてある。中村雄二郎は、2017年に亡くなった哲学者で、一般には「共通感覚論」が読まれて知られているだろうと思う。西欧の近代哲学に造詣が深いが、日本の思想、特に西田哲学にはその時代性もあって詳しく、その後インドネシアで経験した魔女ランダから新しい視野を受けたかのように、深くて拾い考察を展開する。悪の哲学ノートという書も有名である。
 わざわざ著者について紹介したのは、本書がこうした全体的な地図を頭に置いて読むように促しているように思われたからである。
 通り一遍に、宗教の歴史のような教科書的な記述をした本ではない。もちろん哲学であるために、これを「問う」ということについての反省から入るのはあるが、西谷啓治からカント、スピノザといった、悪についての思考を振り返る。悪についての哲学的論考は、思いのほか少ない。神学においては、神と悪との問題は深刻なものでもあったためにいろいろ考えられていたが、しかしそれは神を前提してのものである。予め神というものを置いて考えるしかないのであれば、哲学の存在価値がない。この悪についての自分の考察への経緯のようなもの、またその論考の展開過程のようなものも明らかにしながら、読者を著者自身の思索の世界に誘っていく。
 よく言われた、罪の文化と恥の文化にも触れるが、もちろんそれで満足することはない。しかも抽象的に分析を目指すのではなく、日常の言葉の中に潜む考えを暴くかのように、そして私たちがまるで空気のように当たり前だと思っている文化的基盤を問い直すかのように、穢れや悪についての既存の理解を目の前に並べていく。また、日本の古典的な著作や歴史から分かることの中に潜むものを拾い出しながら、落ち着くところを探していく。
 罪責というものについて、私たちはどれほどの重みをもって受け止めていたのだろう。著者の心を揺るがしたものは、1995年のオウム真理教事件であった。これは従来なかった事件ではあったが、従来からあった何かがこぼれ出たものなのかもしれない。宗教を問おうとするときに、避けて通ることのできない出来事として目の前に突きつけられたというのである。
 そこには、人を殺すことも正義だという理論があった。この問題は、本書の最後まで通奏低音のように響き続けることになる。というのは、日本的倫理の底のほうにあるものに、「誠」という考え方があるのだ、と著者は見抜くからである。この「誠」こそ、正義のためには殺人をも是とするという立場をいうのではないか、と指摘するのである。そこで、日本人の宗教心を問い直して歴史的宗教的に慎重に基礎を固めた後、西田幾多郎もまた、この謎の「誠」ということを大切に扱っている点を検討する。
 その後、ミンスキー・ショックというものに出会い、著者は考えあぐねる。それはかつての文化の中では出なかった問いである。今後人間がその科学力から、細胞を機械で置き換えるなどすると、死なないように、あるいは寿命がいまとは比較にならないくらい長くなることができるという方向に動くことである。まるで銀河鉄道999のようだが、AIの発達はこれまでの常識を覆し始めているし、機械でなくても、ips細胞を扱えるようになったときに、従来とは違う倫理問題が起こってくることは確かである。行為の結果に対する責任問題もまた、かつて哲学者が考えたこともないような問題が起こってくることになる。
 そんなふうに揺れる哲学現場を示した後、最後にもってくるのは、イスラム教である。キリスト教どつぷりの西洋諸国から、とくにフランスがそうだというが、イスラム教に改宗する人が増えているという。考えてみれば、近代化という世界の歴史が、西洋だけで起こっているなどという妙な常識に私たちは囚われていないだろうか。いったい、古代ギリシアをの哲学を保護し、それを生かした形で高度な文化をヨーロッパより遙かに早く築いていたのはどの文化か。イスラム文化ではなかったか。世界征服を繰り返し幾多の文明を滅ぼし、文化の勝利だとして現地の人を追い出したり少数の異端民扱いにしてきたのは、ヨーロッパ諸国ではなかったか。
 著者は、インドネシアでの魔女ランダについて触れた出来事については、本書の初めのほうで語っていたが、最後はまた、湾岸戦争の時の体験や、モロッコの学会に招かれた時のことを生き生きと描く。そしてこのイスラム教への改宗の話題で、本書をぷつんと終えるのである。
 サブタイトルは、「とくに日本人にとって」であった。確かに日本人の感情や原則めいたものの根柢にあるかも知れない「誠」について多くの頁を割いた。だが、最後はまた、イスラムへの動きに戻ったのである。
 著者の本心や意図というものは、いまは確かめようがない。だが、日本人にとっての宗教を問うときに、これほどにイスラム教に意味ありげな位置を与えているように思われてならないのはどうしてなのだろうと不思議に思うのは尤もなことではないだろうか。西欧の悪の認識から、日本での「誠」という隠れた原理、そしてイスラムへのリスペクト、本書は「宗教」を問うとき、このように実に偏った記述で終えている。
 虚無の自覚や外から内からの働きかけに目を向けるなど、宗教や文化に対する著者の眼差しは、最大級の敬意に包まれている。人間は、自らを王にしたり神にしたりすることについては、無自覚的にも天才なのである。宗教の指摘がなければ、奔放にそうした罠に陥り、大変なことになるであろう。宗教や文化は、滅することもないし、むしろこれがないほうが、世界と人間は滅びるであろう。著者のもたらした考え方に盲従する必要はないが、著者が備えた道を私たちも一度辿り、それから、自分の立っているところを意識しながら、科学では解決できないことに対する思考と信頼とを、育てていくことが必要なのである。この宗教とはなにかという問いは、いまお読みのあなたから、そこから直ちにまた始まる問いでもあるのである。




Takapan
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