『増補新版 教育とはなんだ』
重松清編著
ちくま文庫
\760+
2008.3.
まず単行本として、2004年に刊行されている。2002年に取材が始まっている。本書は、各方面のエキスパートにインタビーしている様子が記録されているのだ。2002年といえば、いわゆる「ゆとり教育」が盛んに議論された時期である。ただ、当時の役人である人へのインタビーからして、政府の方が「ゆとり教育」という言葉を掲げたわけではなかった。マスコミがそう名づけてセンセーショナルに振りまいたのだ。
その時期の本である。従って、その後「ゆとり教育」への批判や反省もある中で、そして2008年にもなって、改めてこれを文庫化する意義があったのかどうか、それも問われかねない情況であったことだろう。増補というのは、その役人など2人に対して尋ねたことが、最後に付け加えられているからである。
重松清といえば、泣かせる小説の書き手として最前線にいる人であると言ってよいだろう。子どもたちの世界をもよく描き、念入りな取材と、人の心の機微を、さりげなく描くという形で、読者の琴線に響く物語を描く名手である。実は大学では教育学部を卒業しているのだという。知識も意識もいまは教育関係については素人以下だと謙遜するが、教育学部で学んでいるからこそ、子どもたちの心理も描いてきたのだろうし、人の心や成長ということへの、確かな眼差しがあったのではないかと私は思う。
素朴な教育への理念も抱きながら、そして現場で労苦する方々へのリスペクトも常に持ち合わせながら、日頃思うこと、あるいは学んでなお尋ねたいことなどが、ふんだんに盛り込まれていて、実に読み応えのある一冊となっている。編者が話の隙間に度々出て来て、話を促し、あるいは鋭い質問を投げかけているが、それが絶妙なので、読者は少しも飽きずに最後まで楽しめる。いや、身につまされる、と言ったほうがよいだろうか。
教育学者へ問う「教育論とはなんだ」から始まり、続いて各教科の専門家に尋ねていく。後でも書いているが、編者は、いわゆる「ゆとり教育」へは批判的な立場である。しかし、それをごり押しするのではなく、その視点から質問を投げかけ、事態を明らかにしていこうと意欲的である。
教科毎のインタビューの次は、「学校とはなんだ」という観点から、この改革制度や新たな教育手段について、これまたその道の専門の人に尋ね歩く。遠隔教育についての問いについては、その後のコロナ禍のリモート学習やAI教材などの時代を先取りしていて、それを経てから読んでも味わいがある。
続いて、保健室や給食、学童保育など、日頃教育問題であまり注目されにくい点での議論が飛び交う。これが一般の「教育」についての議論の中から、忘れ去られていることである。しかし子どもたちにとり、それらはどれも大きなことである。親にしてみても、非常に大きなことである。だのに、日常教育問題からこれらは無視されている。そこに光を当てるのが、このインタビュアーの慧眼であろう。
さらに、「教師とはなんだ」として、職員室での事柄や、教員免許の秘密にも踏み込む。最近でこそようやく、教師の過労問題が社会問題化してきたが、教師がどのように生まれるかということについて、案外一般には知られていない。学校や教育を問うからには、当然そこに目を向けなければならないのであったが、これも無視されている。やはり編者の適切な意図だと言え、こうした点への調査と言及が、本書の形を高めているように思う。
就職まで視野に入れて教育する。当たり前のようで、少しもできていないのだ。また、子どもには「夢をもて」と叱咤激励することの残酷さなども、遠慮なく語られる。そうした夢を実現して生きる者が、どれほどいるのだろうか。それよりも、生きていくことへの教育というものが求められて然るべきではないか。「夢なんかなくてもちゃんと生きていけるということを教えたほうがいい」という言葉は重い。抱えるものがただの「不安」であれば、「安心」を得なければそれは解消されないが、「不安」に対して「リスク」だと捉えることができたら、回避への対処法へも意欲が湧く。現実がそこに拘わってくる。私たちは、「わかりやすさ」を求めてきたのかもしれないが、「わからない」ことを前提にし、「わからない」の尊さや魅力を知ることも「教育」の大きな役目の一つなのだ、というように、編者と共に叫びたい樹がしてきた。
最後に触れる。お金がコミュニケーションの手段であるという認識をしたら、「ものを買ってお金を払う」という最低限のコミュニケーションをも放棄する万引きは、言語を放棄してナイフを振りかざすのと等置になる――そのようなまとめを記すことのできる編者の、言葉に対する感覚には、改めて驚きを感じ、また尊敬すべきものだということを覚えた。問題行為は、きっと何らかの適切な言葉により、納得できる論理を含んでいるはずだ。哲学とは、それをするのが仕事であったのではないか、と改めて思わされた。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド