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『大学とは何か』

ホンとの本

『大学とは何か』
吉見俊哉
岩波新書1318
\820+
2011.7.

 大学の歴史を専門的に研究している人ではなく、社会学方面の視野から、大学というところを精緻に辿ったという力作。そもそも大学とは何か、と問うこと自体のおこがましさのようなものを肝に据えつつ、しかしそうして提示する使命を帯びて立ち向かった結果は、私たちが大学について知りたいことを、これだけの短い新書という形式の中で、確かに教えてくれるものとなったように思う。
 大学はここ四半世紀あたりで、大きく変わってきつつある。経営という考えで臨んでいく必要が生じたのは、もちろん政治的な扱いの変化によるものであるが、直面している日本の大学の危機という眼差しは、著者が大学院という組織の中にいる故に、いわば当事者でもある。もちろん大学生の立場からこれを見るという視点もありうるのではあるが、本書は大学という法人が主体である。
 制度的な変化や、経済的な理由などについて、マスコミはすぐに持ち出してきて、議論する。知識人だかコメンテーターか分からないが、事情通のような顔をした人が、思いつきでそれを解説したような風体をとる。そうしたテレビ番組から視聴者が情報を得て、それを鵜呑みにし、大学たるものはああだこうだと意見を、恰も自分があみ出したかのように呈する。その人が一票の力をもって、多数集まっていき、制度をつくる基盤となる。これが民主主義であり、正しい営みであるとされている。
 それでよいのか。
 本書は、そもそも「大学」とはまず何であったのか、そこから入る。それは日本にある今の大学とはもちろん違う。違っていい。かつての姿に戻れなどというつもりは、著者には全くない。だが、それを踏まえていること、知っていること、それなしに思いつきで、大学のイメージを作らされている自分というものに気づかずに、これこそ大学、などという声を発することは、決定的に拙いのだ。
 中世に生まれた大学は、自由というキーワードを以て始まった。それは、都市間の移動がなされた自由な生活の形に伴うものだった。当時の学芸のあり方をまず押さえる。そして、ペストの影響も大きいが、大学が教会により支配され、あるいは領邦国家の中に閉じこめられて、自由なものではなくなっていくと、論争の戦士を産みはしても、自由という理念からは遠ざかるしかなかった。著者はここで、一度大学は死んだ、と称する。
 哲学者が大学で職務を担当するというのは、18世紀、とくにカントの姿が大きく浮かび上がってくるものと言える。その時代まで哲学者の中に、大学の中で活躍した人は基本的にいない。そしてカントは、哲学部の価値を、国王相手に、かなり強く論じている。宗教論以来目をつけられていたカントではあったが、大学における哲学部のあり方については、言いたいことを言っている。有用な他の学部の根底にあって、すべての学問を支えるものとして哲学の営みは大きいのである。
 それは国家により支えられた再生であった。ドイツでこのような再生があり、大学は今に続くような形のスタートをすることができた。他方、後にアメリカでの大学の捉え方はこれとは少し異なり、現代の大学の姿は基本的にこちらを踏襲している。しかし、それぞれに持ち味があり、著者はまた今のあり方に危険性があることも指摘する。
 近現代において、科学技術の発達とそれを支え推進する機関としての大学は、知のあり方やイメージをも変えてしまった。私たちはいま、それでよかったのか、これからもそれでよいのか、問い続けなければならないだろう。
 ところで本書は、日本に的を絞った大学の歴史を詳細に刻んでいる点でも注目されるべきである。西洋を翻訳する大学から始まる明治期であるが、著者の属する東京大学の歴史についての叙述が生き生きとしている。その誕生の経緯について、私は初めて知ることが多かった。学部が統合されて総合大学へと成長する有様は、日本で大学というものがどのように捉えられて始まったのかという辺りも窺わせてくれる。
 各私立大学の誕生も興味深い。中央公論社の歴史まで知ることになった。また、戦後大きく大学は変わる。教育制度が整えられ、分かりやすい形になっていく様子も紹介されている。旧制高校の考え方を残すかどうかの議論もあったが、結局残さずいまの形になっていく。しかし、肝腎の大学生たちの叛乱に遭う。学生運動である。学生運動について私立大学と国立大学とでは動機や内容が異なることもよく説明されており、やがて大学は特に理工系を中心として、拡大されていく。その後私立大学の巨大化ができる事情にも触れてある。大学生の質が下がり、それは後に大学院の問題にも影響する。大学院生も増殖し、就職できないオーバードクターが世に溢れるのである。
 そうして、国立大学の法人化が図られ、実行される。
 著者は、中世の大学の凋落に学ぶところが大きいだろうと言う。但し、それと同じことを繰り返して再生を図るということはできない。私たちは「未来に向けて命がけの跳躍をしなければならない」と言う。かつてのように国民国家による支えはもう期待できない。だが、そうでない形での再生は可能ではないか、探ることができるのではないか、と訴えるのだ。かつて、出版技術が大学の再生に寄与したのと似て、いまやオンラインの利用が、新しい学術のあり方を築く可能性を秘めている。自由な学問のあり方、新しい知のあり方を、カントの問うていたものをひとつ参考にしていく道を考える必要があるのではないか、と著者は言いたいのだろうか。
 その自由とは何か。大学とは何か、を問うその問いは、自由の定義に基づいて規定されていくように見える。自由を規定したカントのしたことは、今もなお必要とされているのではないか。私は、哲学史の研究に勤しむのが哲学ではなく、総合的な知として、人間のあり方や価値、人間そのものを問うメタ視点をも有する哲学が、日本人に見えてくる時代は来ないだろうかと、微かな希望をもっている。いまは、もう経済的利益しか目に入っていないけれども、善く生きることを問う哲学がないならば、もはや衰退と滅亡しかないだろう、とまで言わなければならないと思うのだ。




Takapan
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