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『生命とは何か』

ホンとの本

『生命とは何か』
シュレーディンガー
岡小天・鎮目恭夫訳
岩波文庫
\660+
2008.5.

 気になっていた本だったが、どうしても、というのでなければ、値段が安ければ買うということにしている。それで手に入ったのは運が良かった。だが、読むのには骨が折れた。
 科学の知識がある程度要求される、公開連続講演会の内容である。論文ではないので、聞いて分かるような説明になっているし、生命現象や、シュレーディンガーの物理学上の役割などはいくらか心得ていたものの、聞く場に立つことはなかなか難しい。
 というのは、科学の話を聞くためのは、その話のなされた時代や情況により、一定の常識や、パラダイムと呼ばれる思考枠というものが必要だからだ。本書の内容は、第二次世界大戦の最中のものである。いったい、その時の科学者は、生命をどう見ていたのであろうか。それが、分からない。
 ワトソンとクリックの二重らせん構造によるDNAの理解が現れたのは、この講演よりも明らかに後である。しかし本書は、この遺伝に関する理解とそのタンパク質の構造などに光を当ててもいるのであり、そこにシュレーディンガー直々の量子力学の考え方を交える。しかしシュレーディンガーは、古典物理学的自然像から抜けきれず、やがて理論物理学の発展が、確率や不確定性へと進むにあたり、置いて行かれることとなる。
 本書の提言が、必ずしも無意味なものではない、ということであるらしいが、他方当時の理解と現在の科学常識とが異なる面があるために、いまの読者としては、どこにどのように立ってこれを聞けばよいのか、分かりづらいわけでする。
 従って、こうしたいわば古典的とも称される科学の論文や講演を紹介してくださる場合には、述べられていることがその後どういうふうに乗りこえられたか、あるいは今でも有効なのか、そうした点を細かく本文中にでも指摘してもらうと、助かると思った。これが哲学書であれば、いくら古代の思想であっても、現代に直結する場合があるから、そこまでの注釈は要らないだろう。もちろん、使われている用語の意味概念の相違については、説明がなされるべきだが、科学の場合はそれよりももっと典型的に変化が起こると思うのである。
 そうした注釈のような解説は、本書では巻末に載せられている。岩波新書版時代の「訳者あとがき」もそこにはあり、これがなかなか長い。さらに、その30年余り後の岩波文庫への収録に際しての「訳者あとがき」もそこそこ長い。ある程度は補ってくれているが、本文中にあれば、もう少し悩まずに読み進むことができたのではないかと思われる。
 その「訳者あとがき」の後のほうがなかなかユニークで、ここまで「オルガスムス」について突っ込んだ叙述をする必要があるのだろうか、と驚くほどであったが、シュレーディンガーも触れられなかった脳科学を示唆するためであった模様である。ただ、それというのも、シュレーディンガーが哲学的な、あるいは神秘的な領域へと突き進むか、あるいはそれをにおわせるような形で思索を進めていたという辺りを指摘しようとした故であるらしい。確かに、本講演の「エピローグ」は、「決定論と自由意思について」と題されており、神や意識、そして自己についての問いが並んでいる。それらについての検討は不十分ではあるが、シュレーディンガーの見ていた方向に何があるのかを感じさせてくれる。
 サブタイトルは「物理的にみた生細胞」である。いったい、「生命」とは何であるのか。物理だけで説明がつかないようなところに、簡単に「霊」などという説明手段を用いないところが科学者ではあるが、生きている私たちは、ずっと問い続けてよいものであるのではないか。その意味では、本書のタイトルは、投げかけるものとしては最高のものであったのかもしれないと思った。




Takapan
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