『世界史リブレット28 ルネサンス文化と科学』
澤井繁男
山川出版社
\729+
1996.10.
最後の年表や資料を含めても90頁のブックレット。小気味よく論が展開する。しかも、注釈や資料をその都度載せるために、上3分の2には本文はない。行間も程よく空いていて、本文の情報量は特別に多い感じはしない。だが、疑問点はその注釈や資料ですぐに解決されるし、読みやすいことこの上ない。
教科書タイプである。歴史についての言及は、諸説あるばかりか、史料の点からしても、勇気の要ることである。これはこうである、と言い切るのは簡単なものではない。しかし、教科書ならばそれはできる。それが許される。そして、学ぶほうも、全てをそのまま信用するということさえ避ければ、快適に学ぶことができるというものである。
一般に、ルネサンスを、「近代の起源」とみるか、「中世の連続」とみなすか、がひとつの問題である。それから、ルネサンスというものがひとつの「独立した時代」と考えるか、「時代の過渡期に過ぎない」とするか、がもうひとつ。この二つの問題意識とは違い、本書では、「コスモロジーへの問いかけ」という特色をルネサンスに見ようとするのである。コスモロジーとは、宇宙論である。近代自然科学の目指した宇宙論というよりは、「宇宙のなかにおける自分のおかれた位置、人間の位置」のことなのだという。これを著者は、「私たちの運命」のことだとも言っている。
そこで、著者は記す。この世界を「自然」に見立てて「自然の発見」とし、ルネサンスへおける<自然のコスモロジー>の探究を考察し、人間のほうは「私の発見」として<私のコスモロジー>を自伝作品のなかにみていきたい。
中世末期のダンテ『神曲』と、ボッカッチョの『デカメロン』との比較からして、関心が神から人間に移ったことを示す。しかもそこには、ペストが1348年にフィレンツェを襲ったという事件がある。これは、新型コロナウィルス感染症に見舞われたいまの私たちの立場から見ると、また別のリアリティを覚える。
このとき、キリスト教会や聖職者の堕落も描いたボッカッチョ。それがどんな内容であるかは、案外直接紹介されないものだが、ここにはかなり具体的に紹介してくれているのが興味深い。それは宗教を棄てたと呼ぶこととは程遠いのではあるが、人間的な新しい宗教観の中にも身を置いていることがわかるのだという。ダンテにとって世界はカトリックの世界そのものであったのとは、がらりと変わるものである。
続いて、ペトラルカとカルダーノを例にとり、「自伝」というものの現れを扱う。自分が何者であるか、その自己省察の意識についての言及は、アウグスティヌスの『告白』による神の世界の枠内のものとはやはり違うのだという。
著者は、やはりペストというものを大きく捉える。キリスト教ではもはや救われないという意識が、常識となってきたのだという。ただ、キリスト教をやめたわけではないので、当人ですら、そのことに気づいていないようなのである。
ルネサンスは、自然科学の成立の時期にも受け取られる。が、かねてからの「魔術」なるものと「科学」とでも呼ぶものについては、当人にとっては境界がよく分かっていないのではないか。その辺りの事情が、「汎神論」という形での現れであるかもしれない。だから、キリスト教から近代科学への途中に、「魔術」というものが契機となっていると考えることがてきるのであろうか。そこで、ガリレオのこと、それからカンパネッラという友人の、どちらにも振り切れない態度が、詳しく扱われている。
さらに、「知」が次第に独立した分野へと展開してゆく過程を、カルダーノからヴィーコを辿ることによって説明してゆく。しかし、最後のほうはやや唐突に終わったような印象を与え、<知>と<生活>との関係が、もやもやとした形で揺らいでいたように感じた。私の読み方が下手なのだろうが、いまの私たちがどうすべきか、を記しているように見えていながら、ルネサンスの思索者たちがそれらをどう扱っていたか、をまとめているようにも見えた。恐らく、いまの私たちがどう理解したらよいか、をひょろりと交えてしまったのではないか、とも思える。ここが明晰ではなかったのが、ちょっと悔しい気がする。
あるいは、本書の性格からして、いまの私たちがどうということは、本来述べるべきではなかったのかもしれない。その辺り、私にはよく分かっていないことなのだろう、とは思うけれども。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
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