本

『忘れ物のぬくもり』

ホンとの本

『忘れ物のぬくもり』
塩谷直也
女子パウロ会
\1800+
2007.8.

 タイトルは嘘をつかない。それは本の中にある文章の一つのタイトルではあるのだが、そこに含まれる「ぬくもり」の語が、すべてを物語っているように感じる。これほどぬくもりのある本は、見たことがない。
 副題として「聖書に学ぶ日々」とあるが、必ずしも「説教」ではない。だが礼拝で語られたものも含まれるようだ。しかし、聖書の解説というものがここにあるわけではない。一つひとつが短いメッセージとなっているのであるが、その多くは、著者の思い出話や体験談である。
 著者は、他の本でお見受けしたところでは、学生時代前後に大きな挫折を味わっている。医学を志しながら、その学びを中途で投げ出すようなことまでしている。キリストに出会ったのも、たぶん精神的にぼろぼろになっていた中でのことだろうと思われる。そして本書で窺い知る子どもの時分のエピソードからしても、辛いことや面白くないことが多々あったように見える。その切ない出来事が、見事に聖書の教えと結びついていく。
 家に引きこもり気味でぬいぐるみを愛していたが、それを捨てられて半狂乱になった話。でもそれが、教会に突然来なくなった一人のひとを思う気持ちとつながってくる。
 大好きだが下手くそなソフトボール選手だった自分を、じっと見守っていた姉の姿に、いまは神の存在をしみじみ覚えるという体験。
 汚れるのは嫌だったがそれなりに面白みを感じていた習字の時間、書いたものを先生から笑いものにされたことで傷ついたが、自分の作品をけなされる非業さから、神が如何に傷ついているだろうかと思いを馳せるものもあった。
 高校の文化祭の準備で、偶然暗がりに閉じ込められたとき、もうひとりの女生徒の声に幻想を抱いたが、明るくなってその容貌に落胆した経験によって、自分が勝手に「神」とはこんなものという幻想を抱くことの愚かさを知る、というのはなかなか厳しい話ではあった。
 プラモデルばかり作る中学生の自分に怒りをぶつける父親の横で、ささやかに自分の居場所をつくってくれた母親の一言で救われたこと。弁解できない自分の前で、弁護してくださる方がいて、居場所を備えてくれるというメッセージであった。
 もちろん、思い出話だけが素材ではない。ニュースから、教会の出来事から、話が溢れてくる。そのどれもが、聖書解釈でないにしても、聖書が言おうとしていることの本質を、ずばりと語ってくれるような気がしてならない。聖書が言おうとしているのは、具体的にはこういうことなんだ、と目が開かれる思いが、何度したことだろう。何度目頭が熱くなり、何度胸がいっぱいになったことだろう。
 そしてタイトルにもなった、忘れもののぬくもり。自分の浪人生活のときの出来事を思い起こした後、サマリアの女のエピソードを持ち出す。女はイエスにいろいろ自分のことを指摘された末、町に行って、メシアかもしれない、とふれまわる。そのとき水がめをそこに置いたまま町に行った、と書いてあることを塩谷先生は見逃さない。「彼女、わざと置き忘れたな」と気づくのだ。もちろん、それが聖書の「正しい」読み方かどうかは分からない。しかし私は、この読み方に全面的に賛成する。聖書はそのようにして、生き生きと味わいたいと願うからだ。確かなリアリティあるものとして、読みたいからだ。さて、どうして「わざと」なのか。それは、本書を読んでのお楽しみということにしておこう。
 この本は、事あるごとに、何度も開きたいと思う、数少ない本であることは間違いない。




Takapan
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