本

『戦争と学院』

ホンとの本

『戦争と学院』
下園知弥・山本恵梨編
西南学院大学博物館
\1000+
2023.5.

 戦時下を生き抜いた福岡のキリスト教主義学校――そのサブタイトルがタイトルの下に並び、冠には、西南大学博物館研究叢書、と掲げられている。西南カラー(テレベルト・グリーン:百道浜の松の緑と青春そして自由を象徴する)の表紙に、その色合いに収められた、モノクロの写真がある。迷彩に塗られたロウ記念講堂である。西南女学院である。
 本書とその企画展が成立したきっかけは、2016年の「創立百周年」のときに、キリスト教主義の学校としての歴史を振り返ったときに、西南学院のあり方を考えたことであるという。
 本書は、資料集としての価値をももつ。展覧会が開かれる機会に、本書が編集されたわけであるが、その資料の紹介の背後にある思いというものを、想像してみないわけにはゆかなかった。
 序章では、宗教団体法という、歴史の上でそれほど注目されない、だがキリスト教にとり非常に重要な法が検討される。日本基督教団が無理につくられたことはよく知られるが、その背後にあった法と、その運営について、年表とともに明らかにしてくれるというのは、有りがたい。博物館教員の、カトリックや正教会の様子について報告するコラムも貴重である。
 それから後は、「西南学院」のグループとしての三つの学校に分かれて、その戦時中の姿が写真と記録により紹介される。福岡県の福岡女学院・西南女学院・西南学院である。西南といえば、その頭文字としての「WS」の文字がトレードマークであるが、「敵性文字」が使えなくなった。桜を使えと言われたが、その中央に「十字」を入れる気概だけは示した。非常に英語教育で優れていた学校も、英語が次第に禁じられるようになる。ひとつ、表紙は「古事記」と書かれてあるが、中は英語という本が写されていた。これは少しだけ気持ちよかった。しかし冷や汗ものであっただろう。
 校舎が焼けた学校もあれば、最後まで保たれた学校もある。三つあるので、それぞれの歩みというものがあって、戦争の多面性を窺うことができる。戦争ということで、常に同じひとつの結果や反応があるわけではないのである。
 ただ展示資料を示すだけではない。一定の見解や分析がなされてよい。意見が出されることが必要である。資料集としても美しい仕上がりの本書ではあるが、最後のほうに「解説」と「論考」という章が設けられている。一つには、こうした古い資料を守り伝えていくことの意義である。校舎が焼けて資料の少ない学校もあるが、そこにもいくらかのものがあり、ほかにはいろいろな記録や当時のものがある。どうすれば保存できるのか。何をどう伝えていかねばならないのか。特に、西南学院に「御真影奉安殿」があった点については、西南学院の章に詳しい図面などが紹介されているが、これが戦後いとも簡単に取り壊されたというのは、ある意味で惜しい。もちろん、そのようなものはないほうがよいのだが、原爆ドームのように、歴史的なものとして遺しておく可能性もあったのではないかと思う。まず建物の一角に奉安所がつくられたが、それでは失礼だという意見もあり、別に奉安殿が建設されたというのだ。キリスト教主義の学校であっても、全員の賛同で、神社仕様のこうしたものが構築されてゆくのだ。
 最後の「論考」では、戦時下における修学旅行という、他ではあまり聞くことのできない事情を知ることができた。また、神学部教授による「西南学院の使命と平和構築」という、根本理念のところへと心を向けさせる、本書の本来の意義を問うことによって、結ばれることとなっていた。
 戦争を美化するものであっては、もちろんならない。だが、闇雲に戦争を悪呼ばわりし、軍が悪いとか政府が悪いとかいう主張を以て終わるのであってもならない。また、犠牲者への同情や、悲劇めいたものへと感情を揺らすことが得策であるのでもないだろう。私たちはどうすればよいのか。この歴史をどう胸に刻み、そこから未来をどう学ぶことができるのか。歴史は過去を学ぶためのものではない。私たちの未来を考えるために、真正面からそれを受け取るべきなのだ。
 そのために、本書は、自らを省みる視点を忘れない。「過去に対する責任」を痛感している。その責任を公に表明してこなかったことを、悔い改めようとしているのだ。戦争の被害者であるのではない。戦争に関わったのだ。さらにいえば、戦争に加担した、という視点も恐らくもつべきなのだろう。
 口先だけで「平和、平和」と唱える者の愚かさを、旧約聖書は明らかにしている。私たちもそうである。戦時中に生きていなかった私のような者でも、その後戦争についてどう意見を明らかにするか、という点では、戦争に加担する責任を帯びるようなことにもなり得るのだ。信徒だと自称しても聖書の中の出来事を「他人事」のようにしか見ない人もいるし、たとえ説教でもそのようにしか語ることができない人もいる。だが、そこには命はない。命とするためには、これらの資料を、自分のこととして受け取り、語るようでなければならない。
 編者の一人は博物館教員であるが、1987年生まれである。もう一人は博士前期課程在籍で1999年生まれであるという。本書が、若いメンバーによって編まれたことの意味は小さくはないと思う。戦争の継承を怠った上の世代の無気力さを窘めるかのように、若い世代が、それを自分の問題として受け止め、問いかけ、遺し、伝えようとしている。その気持ちが、私はなんとしても嬉しかった。自分のことは棚に上げて、ではあるが。




Takapan
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