本

『平和のための戦争学』

ホンとの本

『平和のための戦争学』
松村劭
PHP研究所
\1,100
2003.11

 戦争はいけない、という結論をもち、叫ぶ人々のことを、「戦争反対!」という表記で、徹底的に糾弾する。その論理は、最初のうちは説明の筋が通っているところもあるかと思っていたが、そのうち、本音一辺倒に成り下がっていく。
「日本に対し敵意をもっている国に対して国防を備えるのは当然で、これに対し「戦争反対!」と叫べば、日本に敵意をもっている国に味方することになる。それは売国的行為であることは確かであろう。」(113頁)
 確かだろうか。論理のすり替えが行われていることは、冷静に読めばすぐに分かる。国防を備えることと、戦争反対と叫ぶこととは、対立概念ではない。そもそも著者が独自に定義する「戦争反対!」と表記する概念は、次の通りである。「いくら平和を希求するといっても、侮辱とののしりのスローガンとともに戦争反対を叫び、まったくそれ以外の主張に対して聞く耳をもたない行為は、本来許されべきではないはずである。本書では、このような一方的かつ狂信的な戦争反対の態度を、カギかっこつきの「戦争反対!」という立場だと定義することにしたい。」(17頁)
 すると見えてくるのは、この「狂信的」という言葉は、そのまま著者自身に当てはまるという図式である。そして事実、読み進めれば、それが間違いでないことが分かってくる。
 かなりの戦争マニアである。防衛大学校を卒業して、自衛隊の幹部を務めてきた人であれば、それは当然のことなのであろうが、さすが職業上、とでも言うべきだろう。古今東西の、あらゆる戦闘についての歴史が頭に入っている。本書でも、盛んにそれが引用される。お見事だと言わざるをえない。聖書の言葉も引用する。戦うイスラエルの姿を挙げ、神が戦争を命じたという。他方、戦争を否定するような言葉も挙げるが、これをキリスト教界が否定して十字軍を起こしたと書いている。いずれにしても、著者には戦争肯定しか結論はなく、それを権威づけるために、聖書まで都合良く引用しているのは間違いない。さらに、国連などを頼りにすることは「他力本願」だと繰り返すが、本願寺などが、この言葉は教義の中心になる言葉であるから、教義に反する意味で用いられている慣用句としては使ってくれるな、と声明を出していることをご存じない。あるいは、知っていてわざと使っているのだろうか。この戦争論者は、宗教を、戦争肯定のために利用したいだけであることが読みとれるように思う。
 こうして引用する数々の戦争も、考えてみれば歴史の中での戦争である。古代ローマで戦争が起こっていたがゆえに、現在戦争が起こってよいという根拠になると考えているかのような論調なのだが、同列に考えてよいものかどうか、その部分の検討がまったくなされていない。ローマ人の、戦争に対する格言を堂々と掲げていても、それが現代の戦争の肯定になるのだろうか。つまり、核力を背景に抱えての戦闘は、従来の戦争概念と同列に考えてよいものだろうか、ということである。
 核の力ないし生物兵器、さらにコンピュータ制御の元に実行される攻撃は、かつての戦争と同じレベルで論じられることは危険であろう。一つ始まってしまうと、破滅が直結する事態である。戦争が起こることそのものを問題視しなければならない背景があるのだが、残念ながら著者は、その点への考察がゼロである。そして、次第に戦争を論ずる哲学を引用するようになり、戦争を回避するのは臆病だと言い放ち、「道」や「栄華」のような道徳めいたことを説き始める。最後は感情に訴えようというのだろう。
 病気になったとき、それをただ内服で治すしか考えないのだろうか、と著者は言う。思い切った外科的治療が必要なのではないか。つまり、それは戦争である。医学を譬えに用いて、戦争を行うことの正当性をひたすら説こうと努力している。
 著者は、具体的には、北朝鮮に戦争を起こすべきだと考えている。拉致問題を挙げて、戦えとけしかける。拉致されたということは日本の恥なのだから、どんなことがあっても名誉回復を図れというのである。拉致被害者を見ると、彼らを助けるためには、戦争で何人死んでも構わない、それが将来その何倍もの人が死ぬのを避ける道だ、というわけである。士師記に、ベニヤミン族の町ギブアで側女を殺されたレビ人が全イスラエルに号令を発して、ベニヤミン族撲滅の復習を図り、ほぼ成し遂げられる話があるが、それと同じように、戦いは正義であると言いたいようなのである。
 これは、拉致被害者の報道に対しての国民感情をうまく用いようとしている意図が強く感じられる。そうなると、戦争を始めたいメンバーの論拠が、案外感情でしかないのだということがだんだん分かってくる。皮肉なことだが、戦争を行うべきだ、という側の論理が正当性をもつためには、日本が戦火に焼け、日本人が多く殺されなければならないのだ。北朝鮮が日本を爆撃し、北朝鮮軍が侵入して日本をずたずたに切り裂いていく様子を目の前にしたときに、「ほら、だから俺の言ったとおりじゃないか。だからあのとき、俺は戦争をこちらから仕掛けるべきだと言ったのだ」と、戦争論者は勝利に酔うのである。平和裡に世界が進んでいては、戦争論者は誤ったことを主張していたことになりかねず、実際に北朝鮮が日本を占領していく様が目の前にあったときに初めて、戦争をすべきだった、という結論が正当化されるからである。
 著者が最初に提言するように、戦争とは何かを研究することは、平和なときになすべき大切な努めである、という理屈は、決して間違ってはいないと思う。しかし、著者は自分の思いや願いが先にあるものだから、それを無根拠に表に出しすぎた。その意味で、この本は戦争「学」と呼ばれるに値しないものとなってしまった。
 本のタイトルに騙されてはならない。羊頭狗肉という言葉があるが、平和のためというのは、おそらく「沈黙の春」の状態の平和を言うためのものなのであろう。生物が生き残っておらず、春になっても物音ひとつしないような、沈黙の世界が広がる様が現実のものとなってしまうような。
 どうせ平和と戦争を議論するなら、もっとまともな場で議論すべきである。こんな扇動者の書く本が、洗脳する道具として活用されることが怖い。




Takapan
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