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『わかったつもり』

ホンとの本

『わかったつもり』
西林克彦
光文社新書
\770+
2005.9.

 実は電子書籍で読んだのだが、紙の本の価格で紹介しておくことにする。電子書籍は供給元により価格が違うからだ。
 副題に「読解力がつかない本当の原因」といい、あながち外れたタイトルではないと思う。いくつかの実例を用いて、読者を試していくのも面白い。さあどうだろうか、と読者は、自分が正しく読めているかどうかが試されるのである。
 私も大して読めていなかった。つまり本書は、私たちは実に「わかったつもり」で文章を読んで理解したと思っているが、実は正しく把握していない、ということを痛感させる本なのである。その「原因」についても、著者なりに指摘はするが、原因止まりで、それへの対策などについての言及はない。意味連関を自分なりに納得すると、かなりその思い込みで意味をつないでしまい、文章そのものにちゃんと書かれていた情報を読み飛ばしてしまう、つまり自分の思い描いた理解のフィールドに自らのストーリーを刻んで満足しているのだ、ということのようです。
 結論に至るプロセスについては、最後にもきちんとまとめられているので、この新書が主張していることについては、明確であろうと思う。それをここで全部ばらしてしまったら、本のネタばらしを堂々とやったような気がするため、やめておきたいと思う。けれども、少しばかり言いたいことがあるので、関連したことについては触れさせて戴こう。
 というのは、これは「読解力」を問うているのではない、と私は感じたからである。「読んで分かる」=「読解」と考えてしまうかもしれないが、どうもそうではないのではないか。大学生などを用いて実験済みである題材を紹介している実験では、一度じっくり読んでもらい、その後元の文章を見ないで、いまの文章について何が書いてあったのかと問うてくる。これは、記憶力を試しているのではあっても、純粋に読解力ではないようにしか思えない。読解していれば記憶しているはずではないか、という反論もあるだろうが、読解力の無さとは、何度その文を見直してもよいから、正しくその論理や意味を把握できるかどうか試したにも拘わらず、意味を的確に理解していない、というときに明らかになるものであろう。
 その意味では、この十年余り後に出版された、AI時代に備える意味での読解力を問うた、新井紀子さんの著作が、この問題を鮮烈に世に示してしまった。子どもたちばかりでなく、幾度読み返しても、答えられないものは答えられないということについて。短文の情報ですら、そして記憶に頼るのでないにしろ、文意を誤解する例のなんと多いことか、これを明らかにしてしまったことが与えた衝撃はどれほどのものだったたろうか。
 それに対して本書の指摘したものは、記憶がよいかどうかという点については肯ける。ねこの童話のようなものをどれだけ正確に心理や関係を覚えているか、という点について調べて、読解力がおかしい、分かっていないではないか、というふうな方向性である。短文でも、その論理性について問うことが読解力だ、と言われたらそうかなとは思うのだが、それなりに長い、小学校の教科書の正倉院の説明を全部見渡してから、細かな点を質問してきて正しく返答できるかどうか、というのは、やはり記憶の問題を調べているに過ぎないと感じる。
 最後には「整合性」という問題と、「正しさ」というのが違うことを考えさせようとしている点を指摘する。説明されている整合性の意味はよく分かる。無矛盾の命題は、現実に存在することではないようであっても、無矛盾の故に「正しい」とはできない、それは明白である。詐欺師は、否定されない命題を出してきているうちに、それが真実であるかのように当人に思い込ませることに長けている。単なる無矛盾を、真理だと錯覚させるのである。
 言ってみれば、そのような日常に潜むこと、多くの人が直感的に知っているようなことを考えさせようとしているのである。著者の信念というものについて告白するのも、それはそれでよい。だが、「本当の原因」であるかどうか、それもまた、ただの整合性があるというだけで、真理だということではないはずである。サブタイトルそのものを、本書が詐欺的に振る舞っているものと見なしてしまいたいが、よいだろうか。
 そして、ここから、ではどうすればよいか、と提言している新井紀子さんとはやはり違い、著者自身の根拠ある分析や、子どもたちにどうすれば著者のいう「読解力」が身につくのか、といった前向きな方向性を、著者は遺してくれていないように思われる。やはり「読解力」ということと「記憶力」ということとが共に具わったまま著者自身の意見へ辿り着くために巧みに例文や話題を使ってきた著者のこの本は、せいぜいただ一つの可能性を提示したのみであって、決して「本当の原因」が分かったわけでもないし、「その解決」がどちらの方向にあるのかについては、全く触れられていないと言わざるをえない。
 だから私としては、新井紀子さんの方を試してみるとよいと思う。短い文なのに、考え込むことが多いのではないだろうか。長文への緊張を保つことではなくて、たった一文だけであっても、その意味が読みとれないという衝撃を与えたことのほうが、より真実に近いように思われるからである。




Takapan
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