本

『「分かりやすさ」の罠』

ホンとの本

『「分かりやすさ」の罠』
仲正昌樹
ちくま新書596
\720+
2006.5.

 二項対立の考え方を問う、というところに、読み甲斐を感じた。しかしサブタイトルに「アイロニカルな批評宣言」とあるところを、軽く見ていた。後半は完全にこちらにシフトしていた。もちろん、そこに「二項対立」への批判を踏まえたものが流れていることは明らかである。そういう基礎付けがあってこその、アイロニーについての議論であった。しかし、読み終えてみて、この後半こそ、本書の動機なのだろうということはよく伝わってきたと理解した。
 どうも、右派の企画の鼎談に参加したことが、左派に対する批判をしてきたことと相俟って、ひどく非難されたらしいのだ。著者は、何も右派の論陣にいるわけではない。少しばかり距離をおいた中で、自分なりに必要な話に挑んだだけのことだという。それなのに、左派に対してアイロニカルな声を発していたこととそれとが早急的に結びつけられて、激しい非難を浴びたということのようである。
 著者はこれにすっかり頭にきた。しかし、ただそれに反論するのも芸がない。いったい、どうして左派だけでよいとはしなかったことが、即座に右派の先陣のように扱われなければならないのか。それは、二つのものの対立で物事を決めつけているからではないか。そう、そういう図式は世の中に多い。Aでないのか、ならばおまえはBなのだな。こうして、対立の図式が構成され、その対立の中で、自分が正しいと思う者同士が、相手の間違いを攻撃する、そんな論壇あるいは思想の世界が知識人の中に、社会の中に定着しているのはどういうわけだ、という点を示そうと努めた。ということで、まずはそのような二項対立でよいのかという点をたっぷり語ることによって、基礎固めをしようとのではないか。
 誤解はあるかと思うが、ざっくり構えると、このような背景があったものと理解した。
 私も二項対立には疑問がある。しかし、その考え方そのものが、二項対立は是か非かという、二項対立に基づいて話しているという指摘を受ける可能性があるため、ややこしい。観念論が、認識される自己を認識している自己がいて、それをまた認識する自己が……と無限遡及に陥るように、二項対立について語り始めると、その語りがまた二項対立に陥るという皮肉が生じる。
 そこへ、まさにその皮肉、あるいは日本語のそれよりも広く構えるアイロニーという見方や立場があってよいと考え、またそのような態度をとっているつもりの著者が、それをどうしようも認められず、アイロニカルな立場をまた否定されて二項対立に位置づけられるというところに、猛然と立ち向かっている、という様子を見せてもらったような気がしているのである。
 だから本書は、前半と後半とで、読み方あるいは読む姿勢を変えてよいだろうと思う。たっぷりと下敷きを形成する前半では、かなり哲学的に学びを受けるつもりで読むことがてきる。二項対立ということに注目し、それを弁証法というテクニックで克服したように見えるヘーゲルであっても、またそれを応用したかのようなマルクス主義であっても、簡単には克服されている訳でないということに、強く考えさせるものがあるのは確かである。
 後半は、文学批評のような領域に浸る。しかしそこから、論理にどっぷり浸からない、アイロニーの見方が表立ってくることになると言える。
 哲学ではこのアイロニーは、ソクラテスに大いに基づくところがあると言われるが、そのソクラテスはそのアイロニーの故に憎まれて命を失った。それと同様に、現代でもアイロニーは決して好ましくは思われない。特に、この二項対立を大前提としている自己主張の激しい精神からすれば、けったくそ悪い存在に見えることだろう。  立場が同じだとは言えないが、著者の気持ちにはどこか通じるものを感じる。私はそんな激しい議論の場からは逃げるだけなので、勇敢にこのように戦う気力も願いもないのだが、卑怯者のレッテルを貼られても、我こそ正義という立ち方をしようとは思わないし、しかしまた、相手が全面的に正しいというふうに傘下に入るつもりもない。正しいのは神だけだという前提ならもっているかもしれないが。
 著者は「あとがき」で、絶対的な証明書を求めるならば、哲学的な「思考」ではなく宗教的な「信念」の話になる、と述べている。そういう一面が宗教なるものにあることは認めるけれども、それがすべてではない。哲学と宗教の二項対立も、きっと定まったものではないと思うので、むしろ宗教だからこそ、自分が正しいのではない、という、一種のアイロニカルな世界観を生きているということもあるのではないか、と呟いてみたいところである。




Takapan
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