『わかりやすいはわかりにくい?』
鷲田清一
ちくま新書832
\680+
2010.3.
大阪大学総長を務めていた時代の著書であるようだ。2010年である。これが1年後に発行されるのであれば、また違う内容になったであろうことも、ふと思う。
サブタイトルに、「臨床哲学講座」とある。「人々と対話し思索を深める」ことである、とカバーのそでに書かれてあるが、本書はその「臨床哲学」とは何か、を説明しようとするものではない。「臨床哲学」の実践をひたすら語り続けるだけの本である。
考察すべき事柄、思索してみる価値のある事柄について、まず「気づく」ことが必要であろう。そこに綻びを覚え、ただすうっと撫でているわけにはゆかない、とささくれのような感覚を知ったとき、ひとはそれについて立ち止まって考えてみる。必ずしもまとまりのない話題を繰り返し、どこへ行くともなしに考え続ける。そのような旅に、読者としてお付き合いさせて戴くことにした。
その「はじめに」によると、これはNHKラジオ第2放送の連続講義「こころをよむ」のためのテクストを底本とし、一部を加筆修正したものであるという。テクストは2009年発行である。そこで著者は、「死ぬ前に、理解できなくとも納得だけはしておきたい」とまず掲げているのは、多少の謙遜を含めたものであるとはいえ、哲学を営む者にとって、かなり正直な言葉であるように思う。自説の正当性を声高らかに叫ぶことが哲学であるとは、私は思わない。もちろん、人の数だけ「哲学」の定義はあろうし、好みもあろう。だが、「ついに理解できなくても、このことがわからないという、そのことだけはわかっておきたい……」という希いがよく起こるようになった旨も記されている。ソクラテスの「不知の自覚」の境地に、哲学者は脚を踏み込んでゆくものなのだろうか。
内容は、直に手に取って確かめて戴きたい。だが、章題を並べるくらいのことは、許されるであろう。
まず「問いについて問う」という、哲学の基礎中の基礎への眼差しを、読者に経験してもらう。「こころは見える?」は、いきなり核心に来たようであるが、星の王子さまをも取り扱いながら、大切にすること、愛することの中にこころを知るような話が、あたたかく展開してゆく。
続いて「顔は見えない?」からは、人格について考える。「ひとは観念を食べる?」は、「食べる」というふるまいの中に、共に食することやコミュニケーションについての視野をつくりだしてゆく。「時は流れない?」は、古来幾多の哲学者が格闘しただろうかと思うテーマではあるが、もちろんわずか十数頁で謎解きをしようというものではない。私たちが時間について、流れを覚えることは確かなのである。だが、そこに失ったものへの思いとというものが関わってくる切なさを意識すると、時間というものは客観的に捉えようとする気持ちがなくなってゆくかもしれない。
「待つことなく待つ?」という章は、ホスピタリティについての話だが、「待てない」時代に遭遇した私たち現代人は、本当に待てない自分を育てて、完全に待てない者になってしまう虞がある。「自分を「待つ」者としてではなく、「待たれている」者として受けとめる。これがホスピタリティの思想である」と著者は宣言する。この辺りの語りには、神学にも大いに関わる風が吹いていた、と私は感ずる。
「しなければならないことがしたいこと?」の章は、責任という問題を考える。「責任とは、ある事態を惹き起こす原因となる行為をなした者として、その結果に対して「咎」がある、したがってなんらかの「責め」を引き受けさせられるということである」という定義には含蓄が深い。「欧米のひとたちは、伝統的に、ひととしての「責任」を、他者からの呼びかけ、あるいはうながしに応えるという視点からとらえてきた」というのは、西洋哲学を少しでも知る者は弁えている考え方である。神から呼び出されている「コーリング」なる職業観について、私たちはもっと表に出して考えてよいと思う。
「所有できないものしか所有できない?」というのは逆説めいているが、その議論そのものは、本書から受け取って戴きたい。ここは「自由」について、実にコンパクトに、だが実にシャープに考察している。「「自由」の概念は、「自己」の概念とも深く結びついている」というのである。私たちは自分のからだを所有しているのだろうか。「拷問」という、少し刺激的な話題を用いて思考実験がなされるが、ついには「つねに同じ「わたし」であることから放たれる可能性としての「自由」が、もしそこから見えてくるだろう」という結論的な言い回しには、希望する感じる。また、この辺りのいくつかの章では、いずれも「ホスピタリティ」という概念が控えているようで、読んでいてわくわくした。
「同じになるよりすれ違いが大事?」は、コミュニケーションについての話。実はここには、「傾聴」と呼ぶべきことについての、大切な知恵が隠されている。「聴く」ことは、しばしば哲学者に重要なヒントを与えるものだが、他者を理解するところにその「聴く」を置き、決して同じ気持ちになろうとするものではなく、「ともに居合わせ、そこから逃げない」というだけで、ある意味で十分であるのだ。ここにも、神の声を聴くことが信仰の基本だと心得るキリスト者にとっては、あたりまえにふだん関わっていることなのかもしれない。「祈り」とは、ひとつにはそういうものだからである。
「できなくなってはじめてできること?」には、老いを具体例として、人間の弱さという者に注目する。障害や福祉についても考えさせられるが、とくに「自立」を尊ぶべき価値だとする風潮に対しては、強い疑念を投げかける。「助けてくれ」の声に支えあいのネットワークのなかにあることが「自立」なのだ、という提言には、もっとこれを世に訴えてほしい、と強く思うのだった。
さらに「憧れつつ憎む?」という章は、家族を扱う。それは避難所であると共に、搾取の場でもある、という危機の眼差しをも提供する。家族が孤立し、特に母親に子育てが集中していゆく現代社会の傾向に、警鐘を鳴らす章であると思う。そして、家族という場に、先の矛盾を意識することも関連して、「葛藤」というものが必要であると説く。それがないのが、大問題であるとするのだ。そして「未熟であるための成熟?」は、今度は市民社会との関係を考える。なんでもかんでもサーヴィスということで、既製品にしてしまうこの社会の危うさが突きつけられる。それは、教育の中で再生産されてゆく危機である。子どもを大切にするというのはどういうことか、改めて考えさせられる章である。
そして最後に「わかりやすいはわかりにくい?」と、タイトルを掲げて挑む章では、哲学の本筋に還り、「知性について」問い直す場が設けられていた。イデオロギーを連呼することが知性なのか。否、著者は知性の本望として、「じっくり摺り合わせをおこなう、そうしたため」を見つめたい。「矯め」のことだろうか。このことをまた、「思考に肺活量が足りない」とも呼んでいる。随所に、イメージ豊かな表現が鏤められており、読者は哲学書というよりは、文学書を愉しんでいるような気持ちにすらなってくる。そうして、「わからないことのうちに重要なことが潜んでいて、そしてそのわからないもの、正解がないものに、わからないまま、正解がないまに、いかに正確に対処するか」が大切である、と説く。「わかりやすい論理」というものが如何に危険であることか。私は本書の発行後、15年して読んだのであるが、恐ろしいほどにこの危険性が高まっていったかを感じている。ひとは、「わかりやすい物語にすぐに飛びつく」のである。問うことをせず、分かりやすさを求めるのだ。著者は、「大人」の思考は、「価値の遠近法」を携えていることだ、と言う。それについて説明する暇はここにはない。ぜひ本書を手に取って、聴いてほしい。考えてほしい。ここでは、西洋哲学の枠を出るようなことは特になかったと思われる。だが、西洋哲学の概念やその歴史の中で気づかれてきたことを、少しでも日常の手許で、そしてここにいる私たち自身の言葉で、問いかけ、聴いてゆこうとする気持ちは、十分感じられた。この営みが「哲学」であるのならば、私たちはやはりもっと「哲学」するべきである。自己反省をすることさえできない、声高々の者が、やけに正しいように見せかける世の中は、危険な道をしか案内しない。
平易な言葉で綴られているからこそ、読者は、きっと「考える」ことができるであろう。こういう言葉の投げかけ方ができる著者が、私は羨ましい。

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