本

『わかりあえないことから』

ホンとの本

『わかりあえないことから』
平田オリザ
講談社現代新書2177
\777
2012.10.

 実は、新刊情報でこの本のタイトルを聞き、ぜひ買って読もうと思っていた。しかし、手にとってみると、演劇の話が展開するような雰囲気がした。私は、演劇については知識がない。「コミュニケーション能力とは何か」というサブタイトルにも惹かれていたのだが、演劇という環境を通じてコミュニケーションを語られたら、これは自分には分からないだろう、と感じたのである。
 やっと図書館に入り、借りるならまあ読んでみようか、と思ったのだったが、それは、たとえ演劇についてよく分からなくても、買うわけではないから損をした感覚にはなるまい、というような世知辛い計算を含むものであった。
 だが、その打算は見事に打ち砕かれた。
 実に内容がばしばしと私に伝わってきて、私を揺り動かしたからである。
 そして、何故演劇なのか、という意味が、熱っぽく伝わってきた。
 それには理由がある。私も著者と同様、言葉の伝達において、危機感を抱いているからである。確かに、言葉にならない要素というものがあり、何もかもが言葉に変換できるわけではない。言葉では伝えられないものがある、ということは私は重々承知している。そればかりか、見えないものが見えること、言葉にできないものが大切なこと、そんなことは、むしろ私のモットーであると言えるのかもしれない。しかしながら、人はしょせん、言葉によってしか考えることができない。言葉によっては、伝わるものも伝わらない。言葉を、発信する側が意図したものとして、受信する側が受け取ることができないと、平和の言葉すら、戦いの狼煙となってしまう。もちろん、その逆もありうる。
 見知らぬ人とすぐに話をしろ、などと言うつもりはない。だから、この本でわりと大きく取り上げられているように、乗物で居合わせた人に「旅行ですか?」と話しかけるという程度のことも、高校生はまず話しかけることがない、という事実について、批判すつもりなど毛頭無い。しかし、何らかの状況によっては、そのようなきっかけがあってもいいし、何かしらコミュニケーションを交わすことが、互いの安心感にもつながるということは、十分にありうることなのである。
 そのためには、演劇という手法で、様々な役を経験していく、ということは確かに有効だろう。そしてまた、日常の生活の中でも、常々私たちは何かを演じているわけだし、それを否むことはできない。「本当の自分」を探すなどと言って、演じることは不誠実だ、と決め込むのは、何か勘違いをしていると言えるだろう。私にしても、教師として、父親として、夫として、教会の役員として、見知らぬおじさんとして、○○君のおとうさんとして、その都度別の顔で、相手に接することがあるし、その同じ顔であっても、立つ席や発言の場所や時によっては、別の態度や発言をすることが当然ある。私たちは、それを使い分けているのが通例である。だから極端に言えば、私たちの毎日は、演劇の舞台での役者のようなものだ、とさえ言える。これが不全に陥ると、その都度の場面で他人と接することができなくなる。まずは、相手にとり分かりやすいペルソナとして自分を示し、接していくことが、平和の礎となるのである。
 挨拶ひとつにしてもそうだ。私の持論でもあるが、挨拶をするというのは、互いに相手に危害を与えるようなことのない、平和な関係でいましょう、という宣言でもあるのだ。あなたに敵意を持つ者ではない、という表明であると考えている。この本にも、そのことが、エレベータの中で言葉をかける外国の文化を通して説明されている。なにげない挨拶の中に、つまりその言葉や口調、声色、物腰の中に、平和の関係を相手に伝える情報が多々あるのである。すなわち、言葉=文字というわけではない。
 この本の良いところを伝えることなく、一方的に私がだらだら話を引っ張ってきてしまった。筆者は、大阪大学の教授としても活躍しており、国語教育についても慧眼を示している。この本の中に、私たちが普段目にする官僚的な教育観がいかに国語を活かすこととは無縁であるかが告げられているように私は感じる。しかも、画一的にこうでなければならない、などという発想を著者は持たない。「発言しない」という選択肢もひとつの立場として認めているのだ。ここがいい。なんとしても書きなさい、発言しなさい、と通例の教育は迫る。しかし、著者の国語教育は、そうではない。
 一見、無秩序に章立てがなされているかのように、この新書は進んでいくが、その順序で読んでいくと、私たちは、次々と、自分に見えていなかったものが見えてくる、いや、目が開かされていくことを覚える。私の問題意識と重なっているので、私はたいへんスムーズにあっという間に読み進んでいったものだが、しかしその短時間に、驚くほど内容に驚き、教えられ、共感しつつ、またインスピレーションを与えられ、有意義な経験をしたと思っている。
 最後になったが、タイトルは、私たちの妙な錯覚、つまり「話せば分かる」といった幻想を前提にして、どうしてわかりあえないのだ、という否定的な見解から批判的にコミュニケーションを捉えがちなあり方や教育観とは反対に、まずわかりあえないのが当然だという前提から歩み始めることはどうだろう、というスタンスのはじまりを告げている。最近、優れた内容なのにタイトルが内容とずれていたり、売らんかなのタイトルに曲げられていたりすることを多く感じる本の題名にうんざりしていた私は、シンプルで的を射たこの本のタイトルに、まさに「コミュニケーション能力とは何か」というサブタイトルに誠実な姿勢が貫かれていることを感じた。このタイトルが通層低音として、確かにこの本を貫き、私たちの社会生活や人生そのものにまで、確実に響いていることを、私は信じて疑わないものである。




Takapan
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