本

『うつに非ず』

ホンとの本

『うつに非ず』
野田正彰
講談社
\1365
2013.9.

 精神疾患については、マスコミを通じて、次々と新しい病気が登場することに、胡散臭さを感じていた。呼び名が次々と変わる。差別的な意味合いで変化があるのか、というふうにも素直に捉えていたが、それにしても何か奥歯に物がはさまったような理由付けで、名前が変わっていく。近年は、うつ病と言いながら、自分の好きなことは楽しめるタイプも病気であり、病名が云々と聞いた。これは明らかに何かがおかしい、と私は確信した。もとより専門知識はないし、医療業界に詳しくもない。しかし、おかしいのはおかしい。教育会がおかしいことは肌で感じるが、この精神的な領域の病気については、そんなはずはないだろう、と遅まきながら気づき始めた。
 なんとかシンドロームと題して、「症候群」という漢字にはもう自然と「シンドローム」とフリガナが付くようにすらなっている。それがまた、流行の服でも紹介するかのように、次々と現れる。マスコミもそれを面白がる。いや、マスコミにとり、これはおいしい商売ネタだとも言えるだろう。物珍しい名前が出てくると、人々はそれが気になり、何のことだと調べたがる。新聞も読まれる。その新たな分野の解説の本が売れる。テレビでもコメンテーターが出てくる。おいしい、おいしい。
 どう考えても、胡散臭い。しかし、個人レベルではそれを実証できないし、確たる証拠も持ち得ない。
 その意味で、この本は衝撃的であるとも言えるだろう。
 もとより、様々な医療組織のあり方に批判的であったであろう著者であり、一部の立場の者からは極端に毛嫌いされている著者であるのだが、政治的な考えはさておいて、医療あるいはこの本の場合は薬品業界だとも言えようが、その思惑と罪深さについて、こうも辛辣に指摘しているからには、相当の覚悟であっただろうと思われる。年齢を重ね、言うべきことは言っておかなければ、という思いもあっただろう。それにしても、ずばずば言ってくれる。
 こういう発言の仕方に対しては、私はしばしば、ポーズに過ぎないのではないか、とか、パフォーマンスのようだ、とかいうふうに疑う癖がある。刺激的なことを大声で言えば商売になる、という世の常を知るからだ。しかし、今回はそうでもないと感じる。話の持って行き方には、激しすぎる表現や拡大解釈も含まれているかもしれないが、現実のケースと薬学的知識や適応については、確かな知識と経験がある。薬品業界と政治的権力とが手を取り合って、一見人の心の病を助けるような言い回しをしておきながら、人を薬づけにし、利益を増やそうとしているというその指摘は、全くその通りであるとしか考えようがないのである。要するに、病気をわざと増やし、それには薬をどんどん出すように仕向けることについて、誰が儲かるのか、ということである。
 私の親戚には、精神病棟で働く者がいる。薬学を目指そうとする受験生も知っている。だが、その現場がどういう意志で操られているのか、目指す世界に何が待っているのか、私は懸念をしていたが、それが懸念にとどまらないということを、この本で知ってしまった。まことに、痛い本であった。
 タイトルは、安易にうつ病と診断し、薬を大量に処方する今の医療現場とそれを創りだしている制度に対して、陰謀とも言えるからくりを暴く意気込みから付けられている。この権力者たちは、反論することになるだろう。うつが自然治癒するなどというのは間違いだ、などと言い始めるかもしれない。しかし、この本には、そういう組織と行政側の、論理のすり替えや筋の通らない論理もどきの詭弁などが、いくつも紹介されている。
 薬害は、エイズやサリドマイドなどの問題に限らない。病院が処方する大量の薬は、要するに薬会社の儲けである点を、冷静に見るとよい。町の小さな医院に、薬品メーカーの営業マンが足繁く通い、粗品と呼びつつ様々な高級品を置いていく事実が、何を意味するか、それぞれの「点」は本来簡単に「線」で結びつくはずである。
 私は、自分の感じていた気分悪さが故なきものでなかったということが分かり、少し気分がよくなった。ただ、薬漬けにされそのために自殺に追い込まれ、しかも補償もなく原因を作った側が何の責任も負わない現実を思うと、やはりまた気分が悪くなるのであった。こんな私も、診療を受ければ五分でうつ病と診断され、大量の薬が出されるのかと思うと、ぞっとするのであるが、実際その犠牲者は、今日も生まれているのであろう。やはり、気が重い。




Takapan
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