本

『うつ 家族はどうしたらよいか』

ホンとの本

『うつ 家族はどうしたらよいか』
西村由貴監修
池田書店
\1,200
2003.5

 鬱(うつ)についての本はたくさんあるし、ネットにも様々な情報が溢れている。だが、それらは「うつ」本人のためのヒントであることが多く、うつの人を支える家族がどうすればよいのか、について助けてくれる本がない――筆者は、精神科の国家的な研究所での勤務の経験もある、社会精神医学・司法精神医学・犯罪学から児童思春期精神医学も専門とする、大学に勤務する医師である。肩書きはともかく、家族の立場からの相談に対する、親身な回答、というのがこの本のコンセプトである。
 やたら学術的な説明に走るのではなく、それは最低限度に留めておき、家族からの相談とそれへの回答を1頁単位でまとめていく。臨床の経験からだろう、様々な家族からの戸惑い溢れる疑問の数々から、Q&A式にアドバイスを重ねていく。現実には様々なケースがあり、こんな人もいればあんな人もいるというふうにそれぞれの質問が違った印象を与えていくが、たぶんこれらは実際に著者が尋ねられた疑問なのだろうと思う、それぞれに血の通った温かさのようなものを感じるのは、私だけではないはず。
 励ましてはならない、とはよく言われるところである。それは単に期待されては困るから、というふうな理由に留まらず、もしかすると、どこか突き放した間柄を提示されるからかもしれない。「がんばれよ」と声をかけるのは、どこかまったりとくっついた関係ではない場合のような気がする。その言葉で、ある意味で一度関係を断ち切ってしまうのだ。もっとあなたに関わっていたい、というメッセージは、そこには感じられない。自分はどうせ見放された存在だ、どうせ自分はいなくてもよいのだ、などという絶望の淵に立たされた患者は、鬱の症状を悪化させる。自分が相手にとって必要な存在であり、かまってもっと深く関わってほしい、というサインを出していたのに、「がんばれよ」では、目の前が真っ暗になりかねない。
 著者は、この程度の抽象論をも好まない。あくまでも具体的に、夫や妻などからの相談として提示された疑問について、どうすればよいかを示そうとする。具体的にかけてよい言葉については、わざわざシチュエーションに併せた台詞として、いくつか紹介されている。家族や身近なところに鬱描写がいる場合、こうした具板的な例が、大いに参考になることだろう。
 うつ病は、真面目で几帳面な人がなりやすい傾向があるという。内面的に罪の意識が強いと、うつ病へ突き進む可能性が出てくる。また、正義感が強いタイプもなりやすいという。人に任せられず、自分でやってしまいたい、という場合である。活動的で社交的な明るさをもつ反面、独りでは鬱症状に囲まれている、ということがあるらしい。
 あまり意識されていないようだが、クリスチャンには、うつ病が多い。私は個人的にも、身近に見たり聞いたりすることがままあるし、うつ病クリスチャンのメールマガジンも愛読している。それはある意味で、分かるなあという部分を含んでいる。上に挙げたうつ病になりやすい人の特徴は、クリスチャンの生活にかなり合致しているのではないだろうか。神の前に、そうしたもやもやをすべて持っていって見せることができればよいのだ。厳格な福音に頼らず、「父よ(お父ちゃん!)」と呼びかける、素朴な信仰をイエスは希望し、褒めている。なのに、クリスチャンたちは、しばしば、「敬虔なクリスチャン」などと、プレッシャーをかけられる。しかし、その意味が体得できると、そこから天へ抜ける道が見つかるなど、自在に取り組めるかもしれない。
 この本の最後では、日本国内での、うつ病の相談ができる施設一覧や、幾つかの患者ならびに患者の家族を支える団体の紹介も行われている。クリスチャン的生活がうつ病の地盤となっている。これは由々しき問題である。
 クリスチャンとうつ、という問題は、早急に取り組まなければならない課題であるとともに、一定のマニュアル的な回答で事が済むわけではない問題である。神を信じれば治る、というふうな説明は、この場合ナンセンスと言われて仕方がない。なにしろ、鬱状態の人は、神を信じているグループの中に大発生しているのであるから。私はまた、牧師や神父もまた、その例外ではない、と言いたい。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります