本

『ウンコな議論』

ホンとの本

『ウンコな議論』
ハリー・G・フランクファート
山形浩生訳・解説
ちくま学芸文庫
\900+
2016.11.

 過激なタイトルである。一体それは何を表しているのか。それは読み進むうちに分かる。しかし、日本人としてはピンとこないのは確かだ。本書は冒頭の文、「現代文化の顕著な特徴というのは、それが実にウンコな議論や屁のごとき理屈にまみれているということである。」から始まる。非常に不安を覚える。だが、そのうちだいたい見当はついてくる。ひとつの哲学的定義のように、説明されるからだ。
 いやはや、原題をちゃんと見ておけばよかった。扉にきっちり書かれている。「ウンコな議論  On Bullshit」と。「たわごと」だとか「でたらめ」だとか訳される語であるが、その成り立ちは、調べてみると、元フランス語の「欺瞞」を意味する単語が入ってきたのだが、その発音が英語で言う「牡牛」のようであり、それが罵声語となるにあたり、「糞」という語が付着したようだという。この付け加えられた部分からして「ウンコ」ともってきたのが、この訳者である。
 道徳哲学者のフランクファートが、もともと小誌にに匿名で出していたものを後に独立させて出版したら、売れに売れたのだという。訳者もセンセーショナルなタイトルにして、解説も豊かに邦訳して出版したが、日本ではさほど話題にならなかったようだ。日本で哲学がどうだなどとブームのようになったことがあったが、結局それはまともに思索しようというものではなく、ファッションでしかないということが明らかになったということだろうか。実際本書は、ふざけた訳ではあるけれども、中身はしっかりしている。哲学用語を使うのではないが、哲学的思考は読解のためにある程度要請される。
 それで、とにかくまずは本文を読んでいきたいものだが、これが実にあっさりと終わってしまう。そして、もう終わりなのか、と思った先には、訳者の解説が始まる。訳者解説と文庫版へのあとがきとを併せて訳者の発言を集めると、なんと本文より長くなってしまうのだ。
 どだい、文庫としては活字も大きく、行間もゆったりとってある。その上いうなれば不必要に、頁下部が空白化している。つまり分量的には、本文はこのような体裁で70頁を下回るのであり、これでこの価格はなかなか厳しい高価なものとなっているが、それは学芸文庫のポリシーなのだろうから、とやかく言うまい。
 さてさて、ここで問題となっているのか、この「ウンコな議論」というものの本質をどう見るか、である。筆者は、「嘘」としきりに対照させて説いていく。最初には「おためごかし」も取り上げられているが、これはまさにフランス語で元々言われていた「欺瞞」に近いだろう。人のためを思ってのことのように見せかけて、実は自分の利益を図っているものをいう。筆者に言わせると、「人々が自分をどう見るか」を気にすることだというから、日本語とは少しズレがあるかもしれない。そこへいくとこの「たわごと」「でたらめ」というような「ウンコな議論」は、そんな策略をももたず、とにかく自分の思ったことを確信犯的に言いまくることであろうかと思う。
 たとえば「嘘つき」は、自分が嘘をついていることを知っている。自分はいま嘘を言っているんだぞという意識を持って言っているからこそ、「嘘つき」なのである。しかし「ウンコな議論」は自分が真実に対して嘘を言っているという意識が全くない。つまり「ウンコな議論」は、それが真実であるかどうかということについては、関心がないのだ、という。自分が思うから真実だ、自分が思うことのほかはありえない、という思い込みがある。自分の思うことが真実であるかどうか、検証しなければならない、という発送が全く欠落しているというのだ。
 そんなことがあるだろうか、とお思いの方もあるかもしれない。だが私は、本書の説明を聞いて、実によく分かる気がした。その人物がいるのである。退職して、一日中ツイートしている。それが、まさにこの「ウンコな議論」を延々とその都度短い文で書きまくっているのだ。その人物の吠え続けていることは、悉くこの「ウンコな議論」の指摘に当てはまるので、私は本書の指摘を気持ちよく受け容れることができると思った。少しでも抽象的な議論は、具体的な実例があると、実に理解を助けるものであるかということを身に染みて感じた。
 筆者は、民主主義の中でこのウンコな議論が現れやすい基盤を示している。一人ひとりが自由に意見を出してよい社会、それは結構なことである。自由が制限されるよりは、ずっとよいものである。しかしこのことは、何かしら自分の意見を表明しなければならないという状況に追い込まれることでもある。ことさらに発言しようとしなくても、たとえば選挙制度は、自分の意見を求められているということになる。実際誰に投票してよいのか分からないけれども、投票しなければならない、という状況に追い込まれると、よく分からないけれど、とりあえず投票するということになるだろう。これが発言という形で追い込まれると、ウンコな議論を展開することになってしまう、というのである。もちろん、投票の場合は、よく分からないから投票しない、棄権する、ということになるわけで、投票率が低いというのは、実際このような理由によるものではないかというところにまで、私は思いを馳せるのだった。
 訳者解説は、文字数を稼ごうとする策略が露骨に現れていて、冗長な口上があまり意味もなく続く場面もあるが、我慢して読めば、確かにちゃんとした解説になっているので、味わってみるとよいだろうと思う。本書の最初の発表は1980年代半ばであるが、その内容を執筆したのは1970年代であったのだと書かれている。それは、「反知性主義」が駆け巡っていた時代であった。社会主義学生運動の議論が、まさに「ウンコな議論」であったのだという。それを見ている中で、フランクファートは、じっと分析をしていたのだろう。もちろん、それには何らかの意義はあった。古来の権威の欺瞞を暴く一面がなかったわけではない。しかしその反知性主義は、自らのさばることによって、でたらめを正当化する誤りに陥り、収拾がつかなくなっていく運命にあったようだ。だからフランクファートはこの本のヒットの後、ウンコな議論でよいのだという誤解を避けるために、『真実について』を出版し、普通の道徳哲学者になっていく。それはそれでよかったと言えるだろう。
 いま、SNSで気軽に誰でも意見や主張を発信できるようになった。自分は哲学など分かっている、聖書も簡単だ、と吠え続け、教会も聖書もギターや歌などの趣味の一つとして喜んで、常に自分が正しいと言いまくるあのツイート廃人(自らそう言っている)のように、この「ウンコな議論」についての考察と分析は、まさに現代において、よくよく意識されてしかるべきものではないかと思う。私の目には、「ウンコな議論」がネット上にはとくに渦巻いているし、結局政治家の発言も、「嘘つき」である場面のほかは、「ウンコな議論」をしているのではないかというふうにも見えてくる。ああ、言論の楽屋裏を覗いてしまったのかもしれない。




Takapan
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