『アンダーグラウンド』
村上春樹
講談社文庫
\933+
1999.2.
1997年3月20日、本書は最初に発行されている。それの文庫版を読んだ。
お分かりだろう。1995年3月20日、それが本書が取材した方々の人生を変えた事件が起こされた日である。
いわゆる「地下鉄サリン事件」。本書は、事件後9か月を経たころに、取材を始めたことから成り立ってゆく。被害者すべてに尋ねるのは不可能だが、一人ひとり連絡をとり交渉し、承諾を受けた人と対面した。文学畑の村上春樹はまだ50歳になっていない、多分に精力的に活躍している時期である。まるで何かに突き動かされるように、この事件でその時何が起こっていたか、を当事者の証言から探ろうとする。
記憶違いもあるだろう。だが、そこは文学者である。記憶が違うということ自体が、何らかの真理を物語っている、ということを察している。体よくまとめて分かりやすい話を報道した機関が、証言者共々、批判される所以である。
当事者に接するまでだけでも、一人ひとり大変な手続きと時間を必要としたことだろう。村上春樹自身、こうしたルポを生業とする人ではないから、すべては手探りである。どう誠意を伝えればよいのか、信頼してもらえるのか。そして何よりも、出会った方々を傷つけずに話を伺うことができるのか。その積み重ねの結果が、ここに結実した。文庫本で777頁、内60頁余が、村上春樹の説明であるが、ほかは全て証言である。よくぞこれだけのものを世に出してくれたものだと敬服する。
5編成の地下鉄車内で、サリンが置かれ、袋を破ってガスを充満させた。死者14名、負傷者は6000人を大きく上回るとされている。そのお一人ひとりに、人生がある。あるいは、あった。命が奪われることからは免れても、後遺症に苦しむ声もたいへん多い。職を失った人もいるし、生活を大きく変えざるをえなくなった人がいる。
それにしても、多くの声がこうして集まると、情況が生々しく、真実性を伴って伝わってくる。たくさんの視点からの記憶が多角的に集まり、パノラマのように、悪夢の瞬間が目の前に現れてくるのである。
瞳孔が縮む、縮瞳という現象を、殆どすべての人が証言している。なんだか辺りが暗くて仕方がない、という体験をするのである。特別に気分が悪くなったのではないにしても、周辺の景色がやたら暗く感じられるようになってしまうというのである。瞳孔が狭くなるので、明るいところでも光量が減少するのである。
こうした症状について、病院側でも、最初は対応できなかったところが多いという。確かに通常、サリンガスなどの患者と触れあうこともないわけだから、病院を責めることはできない。しかし自衛隊関係の病院や医師は、こうした知識があるし、対処法も分かっている。そこから、各病院へ情報が届けられる。それ以前に患者の対応をした小さな医院においては、大したことない、と患者を家に帰すというように、間違った処置をしてしまったところもあることが分かる。
とにかく語ることがてきることを語ってもらうしかないので、インタビュアーは自分の訊きたいことを求めて問いまくるようなことをしない。この辺りが、ワイドショー的な取材はと全く違うところである。視聴率を取るために、あるいは雑誌や新聞の売り上げ増加のために、尋ねられる側の心を思いやらないような姿勢は少しも見られない。だが、それでも一般のそうした取材に辟易して、信用できないという態度をとる人もいたようである。仕方がないと思う。
それでも、一人ひとり、最後にはオウム真理教に対する思いも述べてもらうようにはしていたのではないか。あるいは、順序はともかく、その口から零れたそういう部分を、できるだけ最後のほうに編集して置いたのかもしれない。思い出したくもないこととして、事件のその日のことを語った上に、憎むべきその犯人たちに対する感情など、零したくない、という人も少なくない。死刑にしてくれ、という正直な声もある。自分のこの手で切り刻んでやりたい、というほどの憎しみをぶつけるのも、切実だと思う。他方、生きて考えてくれ、という人もいた。当時まだ逃亡中の容疑者もいたわけで、迂闊な発言が悪い影響を及ぼすかもしれない、という恐れも、どこかにあったかもしれない。
著者自身の「はじめに」は、どちらかというと取材の手法や、これから読む方々のための助言のようなものが綴られているが、終わりの長い文章は異なる。「目じるしのない悪夢」と題して1997年1月に記されたそれは、事件の総括にも似たものでもあり、村上春樹自身の考えが強く押し出されている。ここでそれを説明するつもりはない。人間の想像力や私たちへの問いかけなど、村上春樹の作品の中からはとても並べられないような、ストレートな主張が重くのしかかってくる。それを、直にお読み戴きたいと思う。それらは、今時を置いて読んでも、決して解決ができた問題ではない、と私は強く思う。今以て、私たちの課題として目の前にある訳だし、さらに言えば、益々悪くなっているのではないか、という危惧さえ伴うものであることを感ずる。そして私が本書の真摯さを覚えるのは、「私は今何をすればよいのか?」という問いが、そこに明らかにされているからだ。
説明はしないとは言ったが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で描いた「やみくろ」に重ねて、イメージを豊かにしていることは伝えてもよいかもしれない。そこには、この本の題を「アンダーグラウンド」にした意味が、ようやく書かれていたのだと思う。そして、その叫びだけは、ここに記してもよいかと思う。
――でも私は声を大にして言いたい。「彼らは本当にそんなことをするべきではなかったのだ。何があろうと」。この「何があろうと」には傍点が振ってあった。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド