本

『海辺のカフカ』

ホンとの本

『海辺のカフカ』
村上春樹
新潮文庫
\705+(上);\743+(下)
2005.3.

 綺麗な文庫本を一冊百円+税で手に入れるというのはありがたい。本当に綺麗だ。気持ちよく読ませてもらった。
 村上春樹にしては、きわどい描写がそう見られないかなと思って読んでいたが、だんだんと出てくるので、ちょっともったいない気がした。これは15歳の少年の物語であるから、その世代の子の目にも触れたらいいのにと感じたからだ。いや、話は基本的にふたつの糸筋を辿りながら交互に流れていくような展開を示す。ひとつは誕生日を迎えるときに家出したその少年の冒険であるが、ひとつは戦時中、或る小学校の野外実習のときに起こった不思議に事件から始まる。そこにいたひとりの子どもが年をとって「現代」にいるという流れである。
 例によってネタバレは厳禁であるから、デリケートに紹介していかなければならないが、少年は父親に何かしら確執をもっているが、母親と姉とは幼くして別れている。父親は少年に一種の呪いをかけているような形となり、この母親と姉との不幸な交わりを予言していた。果たしてそれはまさにその通りになったのか、少年はそうなったと考えているが、物語の中ではっきりとそのように明言されている訳ではない。読者が決める自由を与えられているとも言える。
 東京から四国の高松まで少年は逃げる。その時さくらという若い女性に親切にされ、その後も必要なときに頼ることになる。高松でそこの私設図書館に住み込むことになった少年は、大島さんという謎の人物にかくまわれ、親切にされる。図書館には佐伯さんという女性がいて、少年は彼女あるいは彼女の過去と関わっていくことにもなる。
 他方、戦時中の子の一人が、字を読めない者として世に染まらぬ純朴な人物として老人となっていたが、猫との関わりや殺人事件の問題で、ヒッチハイクをしてとにかくある物を捜しに行かなければならないように追い込まれ、運転手のホシノさんを巻き込んで高松へ向かう。
 奇妙な人物との出会いは様々にあり、魅力あふれる展開となるのだが、私はここにも、村上春樹が後に表に出してくる「戦争」の影を強く覚えた。戦争とは何なのか。どういうことなのか。実はこっそり強く主張されているように思えた。
 少年は田村カフカと名乗り、佐伯さんは昔の或る絵で海辺の少年を描いたものを大切にしていた。ここに小説のタイトルがひとつの焦点をもつと言ってよいだろう。また、カラスと呼ばれる少年が、まるで田村カフカ君の心の声のようにして、度々語りかけてくるのも不思議だ。ソクラテスにおけるダイモーンの声というものでもないだろうが、物語の方向を教えるような、また時にその意味を説明するような、重要なポイントを指し示してくれる。
 不可解な展開ではある。しかし不思議と、どの表現や言葉をとっても、ぐいぐいと迫り、無駄がないように思えてならない。この魅力は何なのだろうとというところが、また不思議である。私は小説については鈍感で、作者の仕掛けたものも読みとれず、意味不明なままに場面が過ぎていくようなことを度々感じるのであるが、村上春樹の、とくにこのような小説については、すべてのものが小説の世界として結びついてきて迫ってくるのを感じるのである。
 村上春樹は変な描写が多いかもしれない。なんで日常的な行動を、無駄に冗長に描くのだろうと思うこともある。けれども、どれもが明確に場面を頭の中に描かせてくれ、リアルさをもたらしてくれるという意味でも、無駄がないと感じるのである。
 そして、人の死が次々と起こり、生き残った者が、生きるとは何かを自分の中に問いかけながら、次の未来へ向けて歩み始めるというような筋書きが、村上春樹の小説の世界には多いのであるが、性と死との関係が、人間の不条理な世界の理解と相俟って、新しい色を読者の心の中につくり出していく。そういうところに魅力があるのだと言うと、素人すぎてつまらないだろうか。
 何かがすっきりと解決したという気は起こらない。あまりにも特殊すぎて、どの人物にも直接的には共感できない。しかし、何故か自分がいまここにいる世界とオーバーラップして見えてきてしまうような、不思議な体験をする。この魅力は何なのだろう、と、これまた決して解明できない不条理なことをつい考えさせてくれる、ひとつの小説の世界を味わわせてもらえたように感じている。




Takapan
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