本

『追われゆく坑夫たち』

ホンとの本

『追われゆく坑夫たち』
上野英信
岩波同時代ライブラリー197
\950
1994.9.1

 今は絶版になっている。ただ、新書版で復刊がなされたことがあり、入手が一部で可能かもしれない。新書版だと解説などで若干の相違があるものの、本文内容や写真は代わらない。
 炭鉱そのものだけでなく、こういう貴重な炭鉱の資料が、また忘れ去られていくというのは、寂しい。半世紀前までは日本の経済を大きく支えていたとも言える産業が、跡形もないばかりか、その歴史さえ誰も知らないということになっていくとは。
 著者は、戦後間もなく京大を中退した後、炭鉱労働者となる。まさに現場を知る者であり、この経験を記録文学という形で遺すことになる。炭鉱労働者の自立共同体・サークル村を結成したことでも知られ、そのグループから、水俣病を世に知らしめた石牟礼道子を生んでいる。
 社会を知り、教養も豊かな著者は、炭鉱の実情を一方では厳しく見つめている。それを個人でどうするということはまずできないにしろ、そのことをこうしてペンの力で世に示すということを後にすることができた。
 彼は、いわば小さな炭鉱に従事している。巨大なグループだというわけではない。いわば中小企業であり、現代でもそうだが、その労働条件や実情は、大企業のそれとは段違いである。また、大企業が華やかであるだけになおさら、そのしわ寄せが中小企業を圧迫してくる力になる、という場合もある。そのような構造は、炭鉱においても変わるところがない。
 とくに、労働条件などで、現代の恵まれた労働者の権利云々などというものが確立していなかった時代である。とにかくどうとでも扱われる。労働時間が半日を超えるのも当然、給与がなかなか支払われないのも普通のこと、そうして労働者がよそへ出て行くのを防ぐという目的もあり、その炭鉱の一画でのみ使用できる私的な紙幣がつくられたりもする。監査の目に晒されようとしたときには、わざと落盤を起こして、中にいた労働者を隠して半死半生の目に遭わせておくこともあったという、およそ信じがたい記録が初めのほうで明らかにされる。
 これはもう、私たちの想像を絶するようなことである。だがまた、当時はそういうことも当たり前とまでは言わないが、さもありなんという、よくあるそれなりの出来事でしかなかったのであろう。
 かつて、五木寛之の「青春の門」がヒットして、炭鉱の様子が広く知られるようにもなった。だが、それはあまりにも美しく描いていたかもしれない。ここで現実の姿が描かれる。上野本人も言っている。「もう書くまい、暗く重くなるのがたまらない、しかしそれしかない」と唸りつつ、この本が著されている。もう、惨いほどの実情が次々と置かれていくから、読むほうも実に気が重くなる。
 そこには、たとえば搾取する資本家が描かれている。いや、だがたんに社会主義的な観点からその問題を示そうとしたのでもなさそうだ。最後の解説の中で触れられている。上野は、むしろ大きなヤマを敵にまわしているかのように考えている、と。黒いダイヤと呼ばれ、成金をも生んだ炭鉱の歴史の中で、小ヤマはあまりにも悲惨であったということを、殆ど怨念のように記しているかのようだ。労働者たちは、自らを「罪人」と呼ぶしかなかった。人間ではないと自分のことを見なす、そのようなありさまだった。ここを読み過ごすことはできない。かつてユダヤでは、キリストがそこにこそ手を伸ばしたのである。
 当時、誰もこのような様子を書くことがなかった、と著者は自覚している。だから書くという使命が与えられていたのだという。それを自らの宿命と覚え、取り組んでいたのであろう。ここには、当時の描き方の故でもあるが、現場でなされていたことに関して、あるいは発言されたことに関して、差別語が頻繁に登場する。差別語と今私たちが呼んでいるものについて、それを抹消することが果たして善であるのかどうか、疑問に思えてくる。そのような人間の見方を、言葉を隠すことで防ぐことができるのかどうか。その言葉があることにより、そのようなことを考える人間の現実がはっきりするということもあるのではないか、というふうに。もちろん、子どもたちに安易に使わせることについては好ましくないと考える。しかし、社会のあらゆる場面で消してよいのかどうか。
 それにしても、暗い本ではある。だが、目を背けてはならないと思う。これはたんに過去の話なのだろうか。聖書時代の「奴隷」というものについて、私たちは妙なイメージを抱くことがある。奴隷社会は未開だ、とでも言いたげなことがある。しかし、当時の奴隷はしばしば、有能な家僕として用いられる者がいた。奴隷の権利は、旧約聖書の律法の中でもかなり認められている。その意味では、現代の会社員なるものは、当時の奴隷とさして変わらないか、場合によってはもっと苦しい立場にあるケースがあるかのようにも見える。炭鉱という半世紀前の事実が、こんなにも早くに歴史からも記憶からも消されていこうとする中で、当時ぬくぬくと恩恵に与って一部の人を人としてすら扱わなかったような社会構造がきっちりと遺されていくことは決して意味のないことではない。
 やはり絶版となっていくのはもったいない。




Takapan
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