『日本の説教2 植村正久』
加藤常昭解説
日本キリスト教団出版局
\2500+
2003.2.
全8巻の全集も出ているが、ここでは加藤常昭の編集による、「日本の説教」をまとめたものである。このシリーズは、殆ど出回っていないように見える。明治の名説教者の一人、植村正久の説教を探していたら、これに出会った。シリーズの背景にある捉え方としては、「日本のプロテスタント教会派、世界においても、説教を重視し、そのために真剣な努力を重ねてきた教会として、際立ったものとなった」と編者は語っている。この言葉がいま、日本のプロテスタント教会のどれほどに響いているか、私は知らない。形だけ説教もどきのような話を礼拝の場でお茶を濁すように零している教会が現にある以上、それでよいのか、と問い質したい。
1858年に生まれ、14歳にて、英語を学ぶために入った塾でキリスト教に触れる。洗礼を受ける前から伝道をしていた、と言われるほどのエネルギッシュな若者だった。宣教師たちは、説教者になろうとする植村を止めた。吃音のためである。それは改善されてゆくものの、「訥弁」の形容は生涯続き、その辺りの事情は、とくに本書の「解説」に詳しい。
そこにも記されていたが、説教原稿をつくりそれに従って話していたのではない植村正久の説教は、よくぞこうして遺されたものだと感慨深い。また、教会の礼拝説教で語られたのかどうか分からない文章もあるのだが、解説者は、恐らく礼拝説教だろうとの見通しで編集しているものが多いようだ。
確かに、聖書箇所を挙げないで、恰も講演会で語られた内容のように見えるものもある。社会教訓が混じったり、大衆受けの気配を感じたりするものもないわけではない。しかし、キリスト教に対する熱い気持ちは、どの頁からもよく伝わってくる。それだけは間違いない。
本書に集められたものがそうなのかもしれないが、とにかくキリストに焦点を当てている。旧約聖書の歴史を辿るような悠長なことはしない。福音書がベースであり、イエスをしっかりと捕らえている。イエスとは誰であったか、イエスは私に何をしてくださったのか、そうした視点に浸りたいと思うならば、本書はきっと楽しくてたまらない本となるだろう。
解説によると、植村正久は、読まれるための説教をも書いていた可能性もあるという。あるいは、語ったものを出版の形にするために、文章に綴るということもしていたようである。そのとき、時代は明治の最中である。文語体で書かれるということは当然予想される。説教で語る言葉は口語体であっただろうが、書き言葉は、当時は文語体であったのである。そのため、本書には終始文語調の説教もある。私はさして気にならないが、もしかすると読みづらいと思う人がいるかもしれない。岩波文庫の『植村正久文集』は、旧字体がぎゅうぎゅうに詰まっていたが、本書は新字体で統一してあり、しかもときおり読み仮名も振られているので、基本的に読むのに困難を覚えることはないだろう。
かと思えば、口語調の文章に急に変わり、また文語調のものも並ぶというように、その辺りをあまり気にすることなく並べて置かれているが、当時の文体について垣間見るようであり、私は興味深く感じた。
もちろんいまとなっては百年以上昔の文章である。現在では不適切な表現や用語も多々ある。しかし、現代的観点からそれらを削ったり言い換えたりするということは、多くの本の編集ではしないものである。作業が大変であることもあるが、当時の内容を読者に提供するという意味では、差別語だろうが国際的に問題を含む表見であろうが、そのままの原典を味わうようにしておくべきである。むしろ、差別語を知らないままに、新たな差別を生み出すということがないように、かつての言葉を現代への戒めとするくらいでちょうどよいだろう。本書は、編集者の目についたままにではあるが、(ママ)と脇に振ることで、そうした語が使われていることを表示している。そういうのを見ると、時代の変遷や言葉の変化を思い知らされるような気がする。言葉は、人間の思考そのものである。私たちは、かつての差別語を消すことで、差別の心を浄化できるかどうか、そこは一考を要する。地道な指摘だが、昔の本を提供するときに、この言葉はどうなのか、と読者に考えさせる機会をつくってもらうことは、よいことだと私は考えている。
百年以上昔の説教であり、文章である。だが、その内容たるや、決して古さを感じさせないように思ったのは何故だろう。当時のキリスト教神学の考え方や聖書解釈の深さは、決していまより浅いなどと呼べるものではないように思う。まだまだ学べる、というのが私の印象である。もちろん、百年前で十分だとは言わないが、私たちが気づいていないこと、忘れてしまっていることなども、そこにはたくさん鏤められている。当時指摘されていた利己主義が、現在は克服されているのか、といった点を追及されたら、私たちはきっと恥ずかしくなることだろう。
加藤常昭による「解説」が本書の最後20頁余りを占めるが、ここは簡潔ながら、実に示唆の多いものとして、植村正久を知るためにたいへん優れた内容となっていると思う。必ずしも、植村を「先生、先生」と慕う思いを綴っているのではなくて、植村を批判的に示す場面もそこにはあった。私も、その説教の内容の情熱には感服しながらも、何か植村個人の信仰の中に、釈然としないものを感じることがある。植村自身の、救いの証しのようなものが出てこない、ということは他の論者から聞いたことがある。救いの体験が何であるのか、判然としないものらしい。確かに熱い。だが、自身と神との結びつきというものが表に出ない中で、あるいはまたキリスト教界に於いて信仰が一途であり、新しい理解に対して猛然と反対したという逸話などを知るにつれ、植村正久という人物を崇拝することには、何か危険性を覚えるような気もしているのである。
とはいえ、そこから学ぶことが多いはずであることは、否みようがない。NHKの連続テレビ小説でも、大関和(ちか)を中心としたものが2026年に放映される。植村正久を通じてキリスト信仰を受けた大関をモデルにしたドラマである以上、植村正久が登場しないはずがない。訥弁の説教者の情熱がどう描かれるか、楽しみにしている。

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