本

『和解の福音』

ホンとの本

『和解の福音』
上田光正
教文館
\1500+
2015.5.

 シリーズ「日本の伝道を考える」の第二弾。三部作の中盤を飾る本書は、福音とは何かという本質を論じている。福音は、喜びのおとずれである。その迫り方が弱いことにより、伝道の力がないという可能性がある。著者は、宗教改革の精神を重んじている。さらにまた、アウグスティヌスは宗教改革の先駆であるという捉え方もある。こうしてキリスト教の歴史を大きく捉え、その歴史の全部を福音として考えようとしているように見える。そしてこの第二部は、全体として神学的議論が多くなってくるのである。
 本書はまず「恵みの選び」が取り上げられる。それがなぜ福音に必要であるのか、を論じる。これは、プロテスタント神学にとっても、ともすればつまずきとなりかねない概念である。「選び」については、カルヴァンの理論から強調されたようになるが、物議を醸したのである。神が初めから救いを決めていたとするならば、すでに救いが決まっている者は努力をしなくてよいし、救われないと決まっている者は、いくら努力をしても無駄だということになる。どちらにしても、人間が良くなるような筋書とは言えない。もちろん、その理論はこの程度のものではない。著者は、あたかも天使が針の先に何人止まれるかというような議論のためではなく、福音伝道のためにこの考えがどのように力になるか、それを説こうとする。
 それは、十字架と復活をまさに福音として受け止めることを基本とする。つまり、その中心には、罪とその赦しの福音がある。また、それは個人的な体験に留まらない。キリストの体である教会がそれを実現する機能を有する。
 そこで、この教会が、和解を伝え、和解の実現のためにはたらくものとなる。ここに、主の祈りが効いてくる。まさに、イエスが祈れと言ったその祈りは、形だけのものではない。格好をつけているようなものではない。その言葉に、その祈りに命がある。しかもそれは、共同体の祈りであった。ひとりのキリスト者として生きるための祈りであるとともに、共に祈り、共にキリストの体として生きていく存在、そういうものとしての教会が、この祈りに支えられている。
 贖罪の神学を学ぶためにも、本書は役立つ。これはもちろん、ひとつの解釈である。すべてのキリスト教神学が、本書の通りに語るわけではない。だが、ここで問題としているのは、日本の伝道を考えることである。つまり、伝道というからには、福音を語らなければならない。その福音とは何か。いったい、良き知らせとは何がどうであるから、良き知らせであるのか。私たちは、問わなければならない。無関心でいられない。分かったつもりでなんとなく過ごしているということは、時に勘違いや欺きの餌食となりかねない。キリスト者が拠って立つ土台とは何か。基盤は何か。
 私たちは、教会という単位で動こうとしている。いや、動くことができる。それが強みだ。決して、権威者が君臨する組織として教会はあるのではない。教会は、見えないものとしても存在し、キリストの一部としてのはたらきを担いながら、それぞれが命を与えられて何かをなしている。誰もが役割を与えられ、存在価値を持つ。キリストの中に居場所をもつ。このキリストと呼ばれる大きな存在、それが教会なのだ。その教会は何を語るか。福音である。その福音とは何か。
 筆者は特に、教会と世界、すなわちこの世との関係について、面白い図式を使って説明する。キリストが教会という円の中心にある。しかしまた、世界の中心にも実はこのキリストがいて、しかも教会はこの世界の中にあるから、世界は教会を囲む外側の同心円として存在する。普通に考えると、教会は世界と区別され、いわば聖なるものとして明確に分けられていて然るべきと思われるが、筆者は、この教会の円周、すなわち教会と世界との境目は、実線というよりも点線であるのだという。教会は世界にオープンであり、互いに交わりがあり、いつでも世界の人々を教会の内部に引き入れる準備ができている、と。そして、教会の点線の円周は、キリストを中心としたまま、半径を次第に拡大して、この世界を福音化していくよう命じられているのだという。それが福音伝道なのである、と。このようなイメージ化は、なかなか斬新でもあり、面白いと思う。
 本書の言葉は、敬体であり優しく響く。しかし、論点をぼやかしたり軟弱な主張をしているのではない。そして、注釈が充実している。何かを学ぶためにも、これから調べていくためにも、この注釈はたいへん役立つ。
 こうして、福音の本体と教会の担うべき業を確認した後、いよいよ第三部の最終巻では、より具体的に日本の教会が今後どのようにはたらいていくとよいのかが論じられることになる。




Takapan
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