本

『中東文化の目で見たイエス』

ホンとの本

『中東文化の目で見たイエス』
ケネス・E・ベイリー
森泉弘次訳
教文館
\6510
2010.7.

 高価な本を買うのは、正直、痛い。これは書店で見て、一目惚れして即購入した本である。これほどの値段の本を買うのは、学生時代以来ではないかと思われるほどの決断であり、勇気のいることであった。
 しかし、私は常々これが必要だと考えていた。聖書が、あまりにも「こちら」の視点から勝手に解釈されている虞がある、と考えていた。あるいは、西欧の眼差しもまた、そうである。キリスト教が西洋の宗教だ、と言われるのは、逆に真実なのである。私たちが学び、取り入れ、すばらしい解釈だと崇めている神学は、悉く西洋のキリスト教なのである。そうではない。アラビアやイスラエルの地に根ざした解釈のほうが、真のキリスト教ではなかろうか。もちろん、そこにはユダヤ教やイスラム教がある。そうした外の眼差しがキリスト教であるとは言えないだろう。だが、たとえばその地の風土、文化、生活習慣や建築などからすれば、聖書の記述がきわめてわかりやすく常識的なものであるように見えたとしても、私たちからは異文化として解しがたい場面が多々あるのではないか。それで西洋人も日本人も、妙にひねくり回して、自分本位の意味に受け取ってしまっているところがあるとすれば、これは私たちの失態である。聖書をねじ曲げているのは間違いなく私たちだということになる。
 著者は、中東に長い間実際に住んでいる。その中で、聖書と格闘してきた。また、通常西洋人や日本人が見ない、中東における訳の聖書、古い文献も比較している。そうして、何よりも聖書に書いてあるその対象のものが、目の前にある中で読んでいる。アメリカの山奥で源氏物語を読むのと、京都に住んで源氏物語を読むのと、どう違うか想像してみただけで、そのリアルさの違いが分かるだろうと思う。
 この本は、いわばどこから読んでもためになるように、項目がはっきり分かれている。もちろん、順序通り読めば筆者の意図が理解しやすいようになっていると言えるが、内容は様々な講義を文章化したものとなっており、基本的に独立している。しかし最初に置いたものはやはり筆者の心がこもっていることだろう。そこでまず度肝を抜かされる。イエスの誕生、クリスマスの話である。
 宿屋の主人は、実に冷酷な姿だと私たちは思いこんでいる。だが、パレスチナの家の構造を知る者は、この主人が、当地の当然の親切から、つまり旅人を大切にもてなすというルールから、この身重の女性とその夫とを迎えている様子が、ありありと目に浮かぶのだというのだ。なぜ飼葉桶なのか。それは、主人たちと同じ家屋の中に家畜が夜は入っているという、ごく当たり前の構造に基づいているというのである。たしかに、特別の「客間」は満室であったらしい。だから、家族のための「居間」に隣接した家畜の場を提供したのであるという。だから、貧民層の代表であった羊飼いたちも、家に入ることが認められたのである。聖家族は、実に厚遇されたのである。
 こういう調子で、ヨセフ像や山上の教え、主の祈りの世界が、ユダヤの地における言葉として目の前に現れていく。そうして、イエスの旅の様に入り、譬えの意味が当地の風景の中にしっかりと位置づけられていくことになる。そのどこからも、パウロではないが「目からウロコ」なのである。
 聖書が、しばしばユダヤのレトリックとしての環状構造で記されていることは、私も近年強く意識している。私が説教を考えるときには、この構造で話を組み立てることにしているほどである。この本でも、当然のようにこの点が強調される。そのことから、解釈が西洋式とは変わることもあるし、場合によっては、西洋人が無理矢理曲げて解釈したギリシア語を当時の当然の意味で受け取って、これまで聞き知っていた理解とは全く別の世界が開けていくような聖書の読み方を提供してくれる。それがまた、聖書の全体の中に位置づけて、実に相応しく収まるような理解の仕方なのであり、驚かされる。
 ともすれば子ども向けのように、「善いことをしましょう」式の聖書の譬えが、イエスの鬼のような形相さえ浮かぶ言葉を正当に受け止めることにより、神の真実の声となって響いてくることを立て続けに感じることは、実に快感である。聖書が、中東の風に乗ってやってくる。
 時に、聖書の原文に描かれてはいないが当然その譬えの「主人」が感じるであろう心理やセリフが、脚色たっぷりに補われて紹介される。言外の気持ちや文字になっていない言葉が当然あってしかるべきだと考える私にとっては、これが適切な背景として見えてくる。もちろん著者の勝手な創作や小説化によるものとは区別しなければならないが、聖書の文化とはこういうものだということを、強く覚える一冊である。
 聖書は、安っぽい福音主義で簡単に解釈され尽くしているような、ちゃちな本ではない。なにせそれは神の言葉なのである。神がわざわざ中東の世界の中で民族を導き、その末に救い主を、ひとり子を送りこんで袋だたきに遭わせることを善しとして成し遂げた、人類最善の奇蹟が描かれているのだ。この本でも尽くせない知恵が、奥義が、まだまだあるはずだ。世界中の本を集めてもまだまだ足りないと告げたヨハネの言葉の通りである。ますます聖書の中に、宝物を、あるいは不思議な入口へ誘うスイッチを、見つけたくなっていく。
 最近、良い本にいろいろ巡り会っているが、中でもこれは珠玉の一冊であった。




Takapan
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