本

『土の器』

ホンとの本

『土の器』
阪田寛夫
文藝春秋
\950
1975.3.

 第72回芥川賞受賞作「土の器」を含む短編集。
 元々、阪田寛夫の別の本を探していた。デボーション関係の本の中に登場したのだ。そういうのはすぐに読みたくなる。そういう習性が私にはある。ところが、調べるとべらぼうに高い。諦めて、受賞作を探したものの、結局図書館で手にしたというわけである。
 1975年というのは、作者が49歳のときである。75歳で受賞した黒田夏子氏という強者がいるものの、年齢としてはだいぶ高いほうである。だからなのか、文体も表現も、円熟味を感じさせ、安心して読むことができる。
 ここに集められたのは5編。「土の器」は中央に配置され、それは母を描いたものである。最初の「音楽入門」は、父を。「桃雨」は祖父を。「土の器」は母を描き、「足踏みオルガン」は叔父の大中寅二を、そして最後の短い「ロミオの父」は娘とのことを描く。作者は「あとがき」で、これを「一族の顔合せのような作品集」と呼んでいる。そういうものを書く自分を考えていなかったのに、「不思議な気がする」のだという。
 自分の体験に基づくことだから、生き生きと書ける、というのもあるだろう。リアリティがあるから、描写次第で味わい深い物語ができようものだが、そのためには、その人物のエピソードや、自分との関わりに、それなりの「聞かせるもの」がなければならない。
 最初の「音楽入門」は、1966年の芥川賞の候補にもなっていた。このとき、井上靖は絶賛し、三島由紀夫も悪い評価をしていない。その他の作品が直木賞の候補に挙っていたが、やがてこの「土の器」が芥川賞を受賞する。この時は、特に永井龍男が推し、その他、丹羽文雄、吉行淳之介、井上靖、瀧井孝作、安岡章太郎といった選考委員が高評価をしている。
 この本は、作者の家族の肖像である。そして私がどうして惹かれたかというと、家族がほぼ熱心なクリスチャンなのである。そのことは、以前読んだ『枕詞はサッちゃん』でよく描かれていた。童謡「サッちゃん」の作詞者として、よく知られているからだ。本書の小説の中でも、信仰のことや教会のことが、度々登場する。それが、気取った姿勢ではなく、ごく自然な日常のように描かれているのがいい。何か伝道しようとか、教会については読者は知らないだろう、といった構えが全く見られないのだ。純粋に、キリスト教も教会も、文学の中に溶けこんでいる。それは、作者の中で、キリスト教や教会というものがなにも特別なものではなく、ごく当たり前な世界であるからではないかと思われる。
 小説であるため、筋書きは明かさないようにしたいものだが、父母を看取るという過程が作品に描かれているため、年老いた親をもつ人には、読む意味が大きいようにも思う。ここにあるのは、強い感情の流れではない。淡々と、言葉で綴ってゆく。だが、一見冷たいようにも見えるその文章の背後に、冷静だが、愛情を以て見守っている筆者の心が感じられるのだ。
 後に宝塚スターとなる大浦みずきも著者の娘ではあるが、その姉である内藤啓子氏によって、この著者自身が、こんどはその死について書かれることになる。教会活動も、また夫婦として生活がどうであったかなど、赤裸々に描かれている。先に挙げた『枕詞はサッちゃん』である。
 「足踏みオルガン」のモデルである、叔父の大中寅二は、オルガニストであり、賛美歌などの作曲者でもあるが、「椰子の実」で最もよく知られている。その息子の大中恩(めぐみ)は、「いぬのおまわりさん」「おなかのへるうた」などの作曲者でも有名である。この大中恩と、阪田寛夫とによって生まれた讃美歌が、『讃美歌21』にある「幾千万の母たちの」である。
 なお、芥川賞受賞作「土の器」は、恐らく聖書の中の、第二コリント4:7の言葉を背景にもつものと思われる。ここでは、阪田寛夫が読んでいたであろう口語訳聖書の言葉で引用する。「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」もしかすると、旧約聖書の中に出てくるその言葉の用いられ方を背後に構えているかもしれないが、パウロのこの言葉でよいのではないかと思う。




Takapan
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