本

『伝える極意』

ホンとの本

『伝える極意』
長井鞠子
集英社新書
\680+
2014.2.

 中学生の国語のテキストで、本書の最初にある箇所の一部を読んだ。読みながらもう興奮して、笑ったり膝を叩いたり、もう分かりすぎるほど分かる経験をしたのだった。
 通訳者が、元の発言をどう「加工」することが許されるか、がテーマとなっていた。この「加工」というのは括弧付きで、著者独特の意味合いをこめている。本でいうなら、逐語訳か意訳か、という問題があるが、しょせん外国語は、意訳なしでは通訳できない。ではそれは、どこまでやってよいのか、という関心からくる問題である。
 もちろん、そこでの結論は、真に「伝える」ということの意味へと目を向けさせるものであった。筆者は繰り返し、それには「正解がない」とは言いつつも、発言内容を相手の「心」にまで伝えて初めてコミュニケーションが成り立つのだ、という点だけははっきりさせようとするのであった。
 著者は、同時通訳者である。特に会議の通訳としては草分けでもあるという。とにかく日本の総理大臣が外国要人と対話をするときの通訳を担い、国際会議を数多く成立させているのだという。その生い立ちや英語との出会いなどをも含めて、本書は通訳の現実とその最高度の仕事というものを教えてくれるものとなっている。だから、本書には、幾多の政治家のエピソードも時折混じっている。小沢一郎の語りというのが、論理的で通訳もしやすく、外国人の評判もよかった、というあたりは、通訳という世界であるからこそ分かることなのかもしれない。言葉と言葉が交わるところ、対話がなされる現場だからこそ、そのコミュニケーションがどのようになされていたか、ということが生々しく分かるのだ。
 英語というものについて、私は著者をただ見上げるだけである。だが、通訳するということがどのようなことであるのか、体験がないわけではない。もちろん英語ではない。手話である。私は下手くそなのだが、勘のいいろう者が読み取ってくれる程度の伝え方で、礼拝説教を通訳したことがある。すると、本書で説明している通訳するということの意味や苦労、またその本質のようなものが、よく分かる気がするのである。
 妻もまたその役を担っていた。そして私より、天性的に上手い。手話通訳の資格はもっていないが、福音をろう者に届けたいという熱意がある。本書でも、伝える極意の中に、この「熱意があるか」は入っている。「内容を持っているか」という極意もあったが、それは福音である礼拝説教ということになるだろう。
 いくら教会で福音が語られても、ろう者はそれを直に音として聞くことはできない。ろう者は、教会の福音から疎外されている。なんとかライブで、語られる言葉がもたらす神の言葉、神の出来事を伝えたい。共に神を礼拝したい。その熱い思いから、ろう者の耳になることを望んだのである。魂を生かす説教が有れば、それをなんとかしてろう者に届けたい、と思ったのである。
 しかし、それに恵まれない場へと、教会がすっかり変わっていってしまった。自分はなんでこんな、ただの「聖書についてのおはなし」を手話で「礼拝」という場で伝えなければならないのだろう、と絶望しながら通訳することが多くなった。時に、説教者を「きっ」と睨んで、そんなくだらないことばかり言わないで福音を伝えろ、とサインを送ったこともあるが、もちろん説教者はそんなことには気づかない。そもそも福音を知らないために語る能力も資格もないとあっては、無理な注文であった。
 そこまで言うのなら、こういう素晴らしい神の思いを重ねていけ。人に命を与えるよい説教をたくさん知っている妻は、全くそういうもののない話に、嫌気がさしていた。その語る者自身が、聖書も神も知らないのだ。上辺だけ勉強して、どこかで書かれてあるようなことを並べてみても、そこに命はない。神が語ることではないから、肝腎なことが何も出てこない。
 中学生のテキストにあった文章を妻に見せた。妻はこの長井氏の文章を見て、大笑いした。その通りだ、素晴らしいことが書かれている、と大喜びだった。そこには、たとえばこんなことも書かれていた。――「何を伝えないのかよくわからない」「そもそも伝える気があるのかどうかも疑わしい」と思える発言には腹が立ちます。
 完全に、彼女が経験していることが文字にされていたのである。さらに続けて、こう書かれていた。――逆に、伝えるべき内容と、伝えたいという意欲を持った発言者の言葉は、通訳者としてのプロ意識・使命感を奮い立たせてくれます。
 もう拍手を贈りたいくらい、礼拝説教の手話通訳者がしみじみ分かることである。だから、教会で手話通訳者のいるところでは、説教者は知っておくがいい。あなたの語ることが、そのまま右から左へ渡されているのではない、ということを。優れた手話通訳者は、つまり福音を伝えたいとの使命感をもった通訳者は、福音など語ることのできないあなたの語っていることではないものを、手話で伝えているかもしれないのだ。
 その点を説明すると、無神経に、人間はみな音が聞こえて当然だ、という前提で話を進めるようなことをしていたら、手話通訳者は、それを伝えないだろう。聖書にこうあります、私たちもこうしましょう、などと、聖書を観察対象としてしか見ていないような者が語っていても、通訳者は、勝手にそこから全然別の福音の物語を伝えているかもしれない。そうとう頭を使ってやり続けなければならないから、しんどいのだけれども、実際、それをしていた人が、私のすぐ傍にいるから、真実であることを保証する。
 ところで、通訳者は、発言者の言いたいことをよく汲み取って、それを伝えることがある、というふうにその本の筆者も考えているに違いないのだが、これをもう少し立体的に考察してみよう。礼拝説教の手話通訳がどうであるか、は上に話したが、そもそも説教者自身はどうなのであろう。
 説教者は、神からの言葉を、会衆に伝えることこそが、使命ではないのか。つまり、ここで言ってきた「通訳者」の姿勢は、実のところ「説教者」の姿勢を教えているはずなのである。説教者は、神から言葉を聞く。それを、人の言葉で人々に語って伝える。神はこのように言っている。神はこうしてあなたを救う。それは通訳者の思想ではない。神の思いを、聞く耳のある者に伝えるはずなのである。
 そのように語っている説教者の説教であったら、手話通訳者は、きっと逐語訳をしていることだろう。それほど頭を使うこともなく、ただ霊の流れに身を任せて、神を信頼して、心地よく手を動かしていることだろう。そうですよ、これが福音ですよ、と、とても楽しそうに。
 著者は最後に嘆く。残念ながら聞く人の心に届かない言葉もある。「何かを言った」ということすら記憶に残らない言葉があるなんて……。あなたの教会で語られる礼拝説教は、届いているだろうか。残っているだろうか。問うてみるべきである。




Takapan
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