本

『罪の余白』

ホンとの本

『罪の余白』
芦沢央
角川文庫
\600+
2015.4.

 冒頭で、女子高生の加奈が死ぬ。落下しながら、目の前をいろいろなものがゆっくりと見えるように働く脳の仕組みがあるというが、それを描写に採用し、作者が体験できない事柄をスリリングに描く。
 加奈の父親、それは安藤とずっと呼ばれていくが、この男が物語を引いていく。加奈の母親も、すでにこの世にいない。加奈を産むことで命を引き換えに放棄したようなものだった。そしてその加奈もまた、この世を去った。
 では、加奈はどうして学校で転落死したのか。背後に、咲という美少女と、真帆とがいる。ネタバレにもなるので、詳しくは説明しないでおくことにする。七緒という同級生もいる。ミッション系の高校の中でも稀少なクリスチャンであるというが、ヨハネ3:16くらいしかそのクリスチャン性は出していないが、物語の展開上、本人が知らないところで重要な役割を引き受けてしまうことになる。
 安藤は大学講師だが、そこの助教授の早苗という女性が登場する。ミステリーそのものには関わらないが、人間とは何かという意識を読者に暗示するかのように、重い存在感をもつ。このキャラクターがいることで、この物語は深まりをもつことに成功したのではないかと感じる。ひとの感情が分からず、コミュニケーションに難をもつという背景があるからだ。だが、私から見て、この人が最も健全な精神の持ち主であるかのように見えて仕方がないのはどういうわけなのだろう。
 物語そのものをここで書くことはしないために、これ以上何をどうとも言うことができなくなってしまうのだが、人の心の中の「罪」を、こんなにもあからさまに露呈させてよいのかどうかというところから、違和感を禁じ得なくなった。どうしだろうと考えた。そう、ミッション系の高校と、聖書の雰囲気が背景にちらちら見せられているところから、この「罪」という言葉を際立たせようとしているのであるだろうとは思う。しかしキリスト者の私から見ると、その点は非常に軽く、雰囲気だけに終わってしまっていることに気づいたのだ。そこが残念な気がしてならない
 作者はストーリーを語るのにうまく、また心理を描くのにも若手とは思えないほどに巧みだと思うし、何より、読み手の心に必要十分に情報を与えていく文章力は大したものである。各賞を受けているのも肯ける。しかし、惜しむらくは、この「罪」の理解だ。タイトルにもそれを用いた。舞台もキリスト教系にした。聖書の言葉もひとつ引いた。決定的な場面でこの「罪」という言葉を語る機会をつくった。だが、何か薄っぺらいのだ。人間の中に、教義的にいうと「原罪」として居座るものだが、たとえそう呼ばなくても、人間自身では如何ともしがたいような悪の根源の存在、そしてそれに対する「赦し」というものの闘争のようなものが、世界文学では多く刻まれてきた。それはもちろん、キリスト教文化を背景とする欧米の文学を基準にしているから、そのように見えるものなのだろうとは思うが、あいにく本作は、そのキリスト教を舞台に登場させてしまっている。そうなると、当然聖書が描いている「罪」と同じものではないにしても、それに何かしら匹敵するだけの「罪」への理解が必要になってくる。パウロがどうにも自分の中にあるそれを簡単には無くせないことで怒り、失望し、嘆いているような点すらあるために、そしてその罪を赦すキリスト、罪からの救いを描く聖書というものをバックボーンとするだけの、深みを見せてほしかったのである。
 もちろん、自分の中の罪ということをも、最後ににおわせるシーンはある。だが、やはり全体的に、タイトルにもってきたその「罪」の描写が、浅すぎるのだ。雰囲気だけで持ち出してきたという印象を、どうしても拭うことができない。
 誤解しないで戴きたい。物語は面白かったし、考えさせるものが多かった。エンターテインメントとして優れていることについて、異議はない。それだからこそ、せっかくのモチーフについて痛切に感じ入ったことのない精神が、やはり「罪」を描けなかったのだ、という点が、惜しいのである。もしも、キリスト教を中途半端に持ち出すことなく、ただ一般に捉えられているような「罪」という概念でこの物語が展開していたのであれば、私は別にこんなことを言うつもりはなかった。十分、世間的な「罪」という言葉でこの物語は完結すると思う。なまじっか、十分知らないキリスト教の「罪」を飾りに選んでしまったものだから、それは違うんじゃないの、という距離感を覚えさせてしまった、と言いたいのだ。
 ぜひ聖書をお読みください、と申し上げたい。




Takapan
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